札幌クマ日記
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2023年3月12日日曜日
2023年3月9日木曜日
2023年3月6日月曜日
小説 霊園散歩
霊園散歩
第1部
1
2019年3月末に60歳で札幌市内の総合病院を定年退職し、その後は働きもせずに家でブラブラと過ごしていた私の気楽な引退生活を完全に破壊したのは、2021年5月末のある夜にマーロンから掛かってきた1本の電話だった。
庭の芝生の手入れをし、本棚の中や床に積み重ねられて置いてある大量の本を適当に読み、DVDや衛星放送録画で映画やオペラを楽しむだけといった安穏安逸なヤモメ生活は、そのたった1本の電話によって坂道を転げ落ちるように跡形もなく消えてしまった。
もっとも、その1本の電話のかなり前から、私の最大の楽しみだった海外団体旅行というものは消えてしまっていた。新型コロナウイルスの世界的大流行により、定年後の最大の楽しみだった「毎月の海外団体旅行」は消滅していたのである。
そして、そのマーロンの電話というものも、新型コロナウイルスのパンデミックと関係のないものではなかった‥‥というよりも、ある意味でその「騒乱」の中心部へと私を引き込むものだった。
マーロンの本名は「栗山雅彦」というものだった。もちろん彼は純然たる日本人であり、いつだったか彼から聞いた話では先祖は熊本から十勝地方の開拓地にやって来たという。マーロンは私の大学医学部および内科医局の3年先輩であり、血液病治療の専門医にして指導医でもあった。1991年4月から3年間、これも札幌市内にある「移植病院」で私はマーロンと一緒に働いた。正確に言うと「一緒に」というよりも、マーロンの「部下として」私は働いたのである。
その「移植病院」というのはベット数が300近くある大きな病院で、もともとは血気盛んで優秀な大学の外科医たちが数人集まって、「肝臓移植のできる病院」として設立したものだった。医学部外科教室の講師や助手の地位を投げうった彼らは、莫大な借金を背負って1985年にその移植病院を開設した。しかし残念ながら実際には肝臓移植の機会は巡っては来ず、代わって腎臓移植と骨髄移植の実績を病院は積み重ねてゆくことになった。
アメリカの西海岸で数年間、実際の骨髄移植による治療に携わってきた内科部長を指導者とする血液内科チームが、移植病院で白血病など血液疾患の治療にあたっていた。その内科部長に招かれるかたちでマーロンが移植病院に移ってから3年後に、私は所属する大学の医局の人事のひとつとしてその病院で勤務することになり、マーロンと出会ったのである。
マーロンというニックネームはもちろん、「栗」から来ている。創設間もない「若い病院」に集まった若い看護婦たちは、医師たちと和気藹々と医療をしていた。国立病院や市立病院のような古くからある大病院には決まって見られるような、硬直した官僚組織の冷たい雰囲気といったものは移植病院には微塵もなかった。何よりも患者のためになるチーム医療の実現を目指していた。死んでゆくような重症の患者が多かったからである。そうした患者の前では、まともな医療者なら常に、「何が患者にとってベストなのか」を考える。
看護婦と医師の距離も近く、看護婦が医者をニックネームで呼ぶことも珍しいことではなかった、少なくとも内輪のあいだでは。
看護婦が「看護師」と名称変更されたのは、2001年からのことである。だから今でも、あの当時のナースたちを思い出すと、私は「看護婦」と呼んでしまう。移植病院の看護婦たちは、たいていは医者の苗字を簡略化してニックネームにしていた。私の場合は、「杉田」なので「スギちゃん」である。しかし、ドクター栗山を「クリちゃん」と呼ぶにはさすがに抵抗があったのだろう、それはどうしても女性性器を連想させてしまうこともあるだろうから。そのため「栗」の英語名の「マロン」がニックネームとして使われ、より呼びやすく最初の「マー」にアクセントを付けて「マーロン」となったのだという。そんなことを酒の席で看護婦たちの一人から私は説明されたことがあった。その説明を聞かされるまでは、私はマーロンというニックネームは「マーロン・ブランド」に由来するのだろうと思っていた。そう思わせるくらいマーロンは格好良かったのである、顔は髭だらけではあったけれども。
移植病院で勤務を始めてひと月と経たないうちに、私も看護婦たちから気安く「スギちゃん」と呼ばれるようになっていた。当時私はまだ32歳であり、同じ年代の看護婦や年上の看護婦も多かった。年季の入った看護婦から見れば、私などまだヒヨッコ医者に過ぎなかった。
「あらスギちゃん、おはよう。5号室の斎藤さんね、今朝から吐いてるから診に行ってよ」といった具合に年配の看護婦から命令されることは毎日のことだった。そして私も気安く看護婦と言葉を交わせるようになっていき(当時は酒場での飲み会というものが、今思い返すと異様なまでに頻繁に行われていた)、たまには減らず口も叩くようになっていた。
「おいおい、スギちゃんなんて呼ばないでさ、どうせなら『スギさま!』って声を掛けてほしいね、イナセなお兄さんにでも声をかけるように。そしたら流し目で応えてあげるよ、『何か御用ですかい、そこのおきれいなお嬢さん』」
私が調子に乗って俳優・杉良太郎のモノマネをしていたその瞬間、後ろから嘲るような声が掛かってきた。
「スギさまだってー? スギちゃんにはそんなのまだ100年早いよ!」
驚いて振り向くと、看護婦で主任のヒヤマが立っていた。身長163センチでスタイルが良いうえに、大きな瞳が魅力的な看護婦だったのだが、いつも口調はキツかった。
ヒヤマは私より3歳年下で、移植病院創設期以来の古株だった。結婚し、一人息子をもうけ、それから離婚していた。ヒヤマという姓は「火山」と書くのだけれども、その字面を嫌って本人がいろいろな書類に署名するときは、可能な限りいつもカタカナで「ヒヤマ」としていた。
「スギちゃん、さぁ、早く無菌室に行って。五十嵐さんが吐血してるから」
いつもどこからか現れて、何かの重大事件や事故のときには必ずその現場にいると定評のある主任看護婦がヒヤマだった。
2
マーロンから電話がかかってきた翌日の夕方、私は札幌駅の東コンコースにあるパン屋の喫茶室にいた。ここでは買ったパンをそのまま、店の奥の比較的広いラウンジで、美味しいカフェオレと一緒にゆったりと味わうことができる。私がショーケースの前で色とりどりのパンを選んでいると、いつの間にか背の高いマーロンが横に立っていて、カヌレを幾つか注文していた。
マーロンの顔は髭だらけなのだが、清潔感がある。口髭も顎髭も頬髭もあるのだけれども、長くは伸ばしてはいない、せいぜい1センチだろう。映画俳優のジャン・レノを彷彿させるフルフェイスの髭である。身長180センチ、体重は移植病院で元気に働いていた頃なら90キロはあっただろう、ラガーマンのような偉丈夫だった。そのがっしりとした身体つきをしていたマーロンが、少し瘠せてしまっていたことに私はその日初めて気づいた。ラウンジに歩いてゆくマーロンを後ろから見ると、背中も尻も小さくなっていたのである。しかし、椅子に座り向かい合うと、そこには昔と変わらない、落ち着いた雰囲気の微笑を髭の中に浮かべている紳士のマーロンがいた。
マーロンがカヌレを食べる姿を見ていた。マーロンを前にすると決まって、移植病院で働いていた3年間の日々のシーンがいつも脳裏を流れてゆく。
そこは、生と死との細い境界線の上をヨロヨロと、しかし懸命に歩いている患者を多数抱えていた場所だった。絶えず心電図モニターの音が鳴り、人工呼吸器の重苦しい音が響き、タコの足の数以上のチューブやケーブルが重症患者に巻きついていた。死亡宣告があり嗚咽があり号泣がありストレッチャーの音が響いて消えてゆく世界。そんな中でいつも泰然自若としてジャン・レノ髭の向こうから優しい口調で語りかけてくる医者がマーロンだった。そしてその口調と同じように、銀縁眼鏡の向こうにある彼の瞳はとても優しかった。
私はマーロンと「コンビ」を組んで、2人で常時30人近い患者を担当していた。胃癌や肝癌といった消化器系疾患の患者もいたが、殆どが急性白血病や悪性リンパ腫などの血液疾患の患者であり、若い患者が治療の甲斐無く死んでいくことも珍しくはなかった。だから、骨髄移植が成功して「完治」し、笑顔で退院してゆく患者を送り出した時はとても嬉しかった。そんな嬉しい日の夜はマーロンと私は病院近くの酒場で軽く呑んで帰るのを常としていたし、勤務を終わった看護婦がそこに合流することも珍しくはなかった。そうしたときにはヒヤマは必ず顔を出し、マーロンの横に座ってその場を仕切っていた。
移植病院を辞めたあと、私は札幌市内の総合病院の人間ドックセンターに勤務した。癌治療に従事して疲労困憊する3年間、妻の理絵と長い旅行することは不可能だっし、何よりも「人の死を見つめてゆくこと」に疲れてしまっていた。新しい職場の人間ドックでは入院患者を診ることもなく、9時から5時までの単調な勤務だけであり、そこで24年間働いて定年を迎えた。暇な部署に希望して移ったことによって収入は半分になったけれども、自宅もあり子供もいなかったので家計の支出は少なかった。後年父が亡くなりまとまった額の遺産も入ってからは、私の場合は働く必要はそれほどなかったのである。
マーロンは白血病患者の治療という、身体も心も休まることのない激務を続けていたのだが、そして50代半ばで副院長となっていたのだけれども、2018年に突然病院を辞職してしまった。副院長には定年はなく、働こうと思えば70歳やその先も働くことができたのだが、マーロンは移植病院を去って市内の小さなクリニックに勤務し始めた。そのクリニックは医局の先輩がやっているところで、マーロンは週に2日、午前中だけの外来に出るようになっていた。私はそれを知って、自分の血圧と高尿酸血症(痛風)の内服薬をマーロンの外来で貰うようにした。それまでも毎年終わりには2人で会ってススキノで忘年会をしていたが、3年前からはふた月に一度はマーロンの外来で顔を合わせることになった、私は患者として、マーロンは主治医として。
どうして移植病院を辞めたのかと、その年の暮れの2人だけの忘年会の席で訊ねてみたのだが、彼はただ苦笑を浮かべて「疲れたのさ、寄る年波には勝てないんだよ」とだけ答えた。確かに酒の量も随分と減っていた。頑健だったマーロンも普通の人と同じように歳を取り、活動範囲も酒も少なくなるのだと単純に私は理解した。
ふた月に一度薬を貰いに行っているマーロンの診察室では長い世間話などはできなかったが、それでも私は先月はどこそこの国に出かけてきたと旅行の話を少しはした。総合病院を定年退職する2年前から、年休を取ったりそれを休日に繋げたりという方法で、通常通りに働きながらも海外旅行を年に何回かするようになっていた。そして定年退職後はどこにも働きに出ずに、私は毎月のように海外旅行に出ていた。
何も憂うこともなく、呑気な生活を当時の私は続けていた。マーロンは診察室で私の短い旅行話に微笑みながら耳を傾けてくれたし、年末の忘年会では『ハイデルベルクの嘆き男』や『リトアニアの風の美女』の話を興味深そうに聞いてくれた。
マーロンからの電話が掛かってきた日には、札幌では新型コロナワクチンの大規模接種が始まって既に一週間の時間が流れていた。2021年5月下旬から始まっていた大規模接種である。札幌では札幌駅近くにある複合ビルと中島公園にある札幌パークホテルの2ヵ所の会場で実施されていた。ワクチン接種会場で働く医者の数が全国至る所で足りていないことはネットのニュースを読んだ私も知ってはいたが、それが自分と関係するようになるとは夢にも思ってはいなかった。
その日、喫茶室でカヌレを食べ終えたあと、コーヒーを飲みながらマーロンは話し始めた。
「実はな、俺は新型コロナのワクチン接種の仕事を申し込んでいたんだ。ところが残念なことに、ここのところちょっと体調を崩してしまって、その仕事を断らざるを得なくなった」
「クリニックの外来の仕事をしながらワクチンの仕事をするつもりだったの?」
「クリニックは2日だけだし、ワクチンの仕事も2日だけやってみようと思っていたけれど、どちらも止めることにした。クリニックのほうは他の先生がいるからいいんだけど、ワクチンの仕事は人が集まらなくてな、しかも急に穴を開けてしまうことになった」
「まぁ仕方ないよ、体調が悪いんなら。身体を壊してまで働く必要はないさ」
「それでだ、俺は思い出したんだよ、暇で苦しんでいる医者が一人いたことを」
マーロンはニヤリと笑って私を見た。私は反射的に舌を出した。
「ご冗談でしょ。僕ならお断りですよ、感染しないように街にはあまり出ないように気をつけてるんだから。まして何千人と集まるようなコロナワクチンの集団接種会場で働くなんてありえない」
するとマーロンは例の優しい目つきで私を見たまま、諭すようにこう話した。
「おいおい、ビー・ジェントル(Be gentel. 優しくあれ)だよ、杉田。ビー・ジェントルを実践してみてくれないか、あの時みたいに?」
ビー・ジェントル‥‥
その言葉を初めてマーロンから聞かされた夜の記憶が私の脳裏に蘇った。
3
加藤雄一は北海道庁の役人だった。かなりの地位にいた地方官僚であり、移植病院のマーロンの外来に入院治療目的で紹介されてきたときは54歳で、病名は急性骨髄性白血病だった。
正直に告白してしまえば、私はこの加藤が嫌いだった。傲慢尊大を絵に描いたような男だったからである。胸骨から骨髄を引くときも、最初の局所麻酔の注射から不満そうに息を漏らし、骨髄液を引いたときなどには(患者は通常かなりの痛みを覚える)「痛くなくできないのか! あんた、ヘタなんじゃないか?」と罵声を浴びせられたことがあった。もっとも一度マーロンが加藤の骨髄穿刺をしたことがあり、私がやるよりもかなり痛かったらしく、それ以降はあまり文句を言わなくなった。マーロンは優秀な医者だったが、手先は少しだけ不器用だったのである。
だから、患者の鎖骨下静脈を使ったカテーテル留置やダブルルーメン、ヒックマンカテーテル、胸水穿刺、腹水穿刺、髄液穿刺などなど、あらゆる手先の器用さを求められるベッドサイド手技は全て私が受け持つようになっていた。
最初から私は移植病院を3年か4年で辞職するつもりでいたし、将来血液内科の専門医になるつもりもなかったが、マーロンと一緒に血液患者を診ていた。それだけではなく、胃癌や肝臓癌といった患者の担当も任されていて消化管の検査の腕を磨くようにも努めていた。胃カメラや大腸カメラといった検査の腕を磨いて、将来は一般病院でも働けるようにと考えていたのである。
加藤にしてみれば、担当医はマーロンと私ではあるけれども、病状の詳しい説明をしてくれるのも治療方針を決めてくれるのもマーロンであり、私はといえばマーロンの「下働き」ばかりしているのだから、同じく医者であったとして2人に払う「敬意の度合い」は全く違ったものとなった。当然、私に対する態度も横柄になり、言葉遣いすら乱暴になっていった。
そのために私は偉そうな態度を示す加藤を増す増す嫌うようになり、彼に対する私の対応もごく機械的で冷淡なものになっていった。恐らく、私のそうした態度に腹が立ったのだろう、加藤本人と奥さんの2人からある日、内科部長とマーロンのもとに私に関しての「苦情」が入ったのだった。
その「苦情」がどういったものなのか、マーロンは私に詳しくは教えてくれなかったが、教えてくれなくてもだいたいの見当はついた。好感の持てない患者、はっきり言ってしまえば嫌いな患者に対して、私は顔つきや言葉の端々にそれを出してしまっていた。それはあからさまのものではないし、医療の内容がそれによって些かなりとも変わるものではないのだが、やはり苦情を入れられても仕方のない欠点であることに間違いはなかった。
その日、マーロンは仕事が終わった後に「どうだ、ちょっと一杯やらないか」と私を誘った。既に午後9時を過ぎていたが、着替えて病院前でタクシーをつかまえればほんの10分ほどでススキノの酒場街に到着する。
マーロンの好きなカウンターだけのバー、女っ気の無い、年老いたバーテンダーが一人で切り盛りしている店に入った。そこはそれまでにも何度かマーロンと一緒に酒を飲んだ場所だった。カウンターの左端の席に座ると、マーロンはいつものようにサイドカーを注文した。私はマッカランの水割りを頼んだ。
マーロンは加藤夫妻から前日に苦情が入ったと私に告げた。具体的に何か私の行為が怒りの引き金を引いたのではなく、よそよそしい態度、顔つき、口のききかたが彼らの神経に触るのだという。なるほど、と私は思った。もし私が加藤の立場なら同じように感じて同じように苦情を言っていただろう、何しろ私は加藤が大嫌いなのだから。
私はマーロンに、医療行為は適切にやっていると弁明した。マーロンには言いはしなかったが、マーロンがやるよりも3倍も上手く骨髄穿刺や脊椎穿刺をしているし、鎖骨下静脈へのカテーテルも何もかも問題なくこなしていた。マーロンには「やるべきことはちゃんとやっているはず」とだけ話した。
マーロンはしばらくの沈黙の後、カクテルグラスを眺めながら、突然こんな話を始めたのだった。
「サンフランシスコに行っていたとき、俺のボスはユダヤ人だったんだよな。とても敬虔なユダヤ教徒だった」
マーロンが1年間、サンフランシスコの大学病院に留学していたことは私も知っていた。移植病院で働き始めてから1年後、内科部長の紹介で部長が以前数年間働いていた大学病院に研究員として留学したのである。研究員はとても暮らしてはいけないほどの薄給なので、留学している間も移植病院が普段通りの給料をマーロンに渡していた。マーロンはそこで骨髄移植の最先端治療を学んでから札幌に戻ってきた。
「そのユダヤ人のボスの家に何度か招かれたことがあった。どういうわけか、俺はボスに気に入られていた」
マーロンを嫌うような人間はいないだろうと私はぼんやりと思いながら、水割りグラスの中で氷が音を立てるのを眺めていた。マーロンは続けた。
「ボスは家で飲むのが好きでね、ボスの自宅には素敵なバーカウンターがあって、いろいろなカクテルを作ってくれた。サイドカーがその中では抜群にうまかった。
で、ある日ボスが訊いてきた、どういった話の流れだったのかは忘れたけれども、『マサ、お前は仏教徒なのか?』ってね。で、俺は正直に神もブッダも信じていないし、強いていえば無神論者に自分は入ると思うとこたえた。するとカウンターの向こうの、骨髄移植では世界的権威であるこの人なつっこい高齢のユダヤ人は、敬虔なこのユダヤ教徒は、ニヤリと笑うと、俺をしっかりと見ながら、瞳を見ながら、『実は私も強いていうと無神論者なんだ』と言ったんだよ。
よほど驚いた顔をしていたんだろう俺はね、すぐにボスが付け加えてこう説明してくれたから。確かに自分はユダヤ教徒だけれども、神の存在を信じていた若い頃はもう遠い昔のことだと。そして神を信じなくてもユダヤ教徒でいられるのは、ユダヤ教でもっとも重要な教えに従っていればいいからだと。そしてその教えというのは、
『あなたが人にされたくないと思うことを人にするな』
というものだと。これこそがユダヤ教の最も重要な教えだそうだ。神への愛と隣人への愛のうち、神を信じなくなったユダヤ教徒にはもう隣人への愛しか残っていないし、また、それで十分なのだと、ね。」
私は手に持ったグラスの中で、マッカランの薄い琥珀色が水の中でゆっくりと舞っているのを眺めていた。氷が絶えず溶けてゆき、その透明の水の層と琥珀色の層が互いにダンスでも踊るようにグラスの中で舞っている。空を流れる雲のように見えた。耳に届いているマーロンの言葉の意味は、あの傲慢不遜で威張り散らしてばかりいる道庁の役人である加藤にも隣人愛を持てということなのかと思いながら。
しばらく沈黙を続けていたマーロンが続けた。
「加藤さんはな、かなりの立場にいたらしい、役所では。このまえ見舞いにやってきた道庁の役人の一人と立ち話をしたけれども、こんな病気にさえならなければ間違いなく副知事になれていたはずの人物だそうだ。
ちょっと考えてみろ、54歳の働き盛りの、官僚としてはトップの地位をほぼ手中に収めていた男が生死に関わる病気になり、毎日抗癌剤で吐き気と倦怠感に苦しめられてベッドでのたうちまわり、出世の見込みもなくなり、このままドナー(骨髄提供者)が見つからなければ死ぬかもしれないという状況の中にいる。すると毎朝主治医の一人である若いお前が部屋に入ってくるなり乞食でも見るような目つきで||」
「乞食でも?」
「いや、加藤さんの奥さんの表現だ。多分に被害者意識が入っているのだろうけれども、少なくともお前の態度は愛情のある態度とは到底言えない。何しろお前が加藤さんを嫌っているのは事実なんだから、それが態度や目つきに出てきても仕方のないことだろう。立場を逆にして考えてみろ、お前が加藤さんの立場でベッドで吐き気と痛みに眠られない夜を我慢し通した朝を迎えたとする。すると、息子ほども歳の離れた若いドクターが嫌悪感丸出しの顔つきで部屋に入ってくる、としたら?」
‥‥確かに、それは耐えられないだろうな、と私にも思えた。
マーロンはサイドカーを一口啜ると、何か英語の文章を声に出した。聞き取れなかった私が首を傾げるとと、
「あなたが人にされたくないと思うことを人にするな、さっきのその言葉を英語で言うとそうなる。ボスに教わった唯一にして最高の英語のセンテンスだ。要するに汝の隣人を愛せよという意味なんだろうな、キリストの場合は更に一歩進んで汝の敵までも愛せよと言っている。でもそれら全てをもっと簡単な英語で表現することができるし、それが俺の唯一の信条でもある||ビー・ジェントル、優しくあれ。
なぁ俺はな、優しくできないんなら医者という職業は辞めるべきなんだとさえ思っているよ」
口調こそは「優しい」ものだったが、その言葉の意味するところはその時の私の心にナイフのように刺さるものだった。
「なぁ、杉田、どうせいつかはみんな死んでゆく、別れることになる。いつか別れることになるのならせめて一緒にいられる時間くらいは、人間は互いに優しくあるべきだとは思わないか? 誰にだって、まして患者に対してなら特に、な」
その後加藤は寛解して退院した。私はといえば、あの夜のマーロンの話が効いたのだろうか、加藤に対して失礼な目つきも態度もするようなことはなくなっていった。どんなに彼がイラついて怒りの声や眼差しを向けてこようとも、今考えると当たり前のことだけれども、「同じ立場にいるのではない」ということを思い出すことができた。死の恐怖に苦しめられている患者に、ビー・ジェントルでいられないのだとしたら、マーロンの言う通り、医者を辞めるべきなのだろう。
加藤はHLA(組織適合性抗原)の一致するドナーを見つけることができずに、白血病を再発し、抗癌剤の組み合わせを変えて再度寛解に持ち込んだものの、最初の入院から1年後には死亡した。最期のときには ICUで私が長時間心臓マッサージをした。まだ別れたくはなかった。せめて一度でも、互いに微かなものであれ笑顔を交わし合いたいと思った、やがて死んでゆく人間同士として。それができないままに別れるのは悲しい、そう思った。
心臓マッサージを懸命に続けていた私を見ていたのは、彼の妻だった。遺体を病院の裏門から葬儀会社のワゴン車に納めて去ってゆくときに、見送りに出ていたマーロンに加藤夫人は深々と頭を下げた。それから同じくヒヤマに「お世話になりました」と頭を下げ、私に気づくと、驚いたことに私の前までつかつかと寄ってくると、「先生には本当にお世話になりました」と頭を深く下げたのだった。
後日、マーロンと話をした。加藤夫人が葬儀などを終えて御礼の挨拶にきたときにこう話したのだという。杉田先生がICUで主人を生き返らせようと本当に一生懸命にやってくれたことに感謝している、と。心臓マッサージやボスミン心注、気管挿管、心臓電気ショック、ありとあらゆる蘇生を試みたが加藤は生き返らなかった。これが癌末期だというのなら私もそれほどまで執拗に蘇生を試みたりはしなかっただろうが、急変した加藤には息を吹き返す可能性が十分にあった。だから必死になって蘇生処置を続けていたのだが、その私の姿を加藤夫人は見て、それまで心にずっと抱いていたわだかまりが消えたのだという。
「加藤さん夫妻には子供がなくてな、仕事だけが主人の生き甲斐だったと言っていたよ」
マーロンのその言葉に思わず私は呟いた。「僕にも子供はいませんよ」
するとマーロンは、「俺にだっていないよ、でも愛する奥さんならいるけどな」そう言って、左手の薬指を私の目の前でヒラヒラさせた。
薬指の金色のリングが眩しいまでに輝いた。
(続く)
資料 松田翔太 松田ゆう姫
松田翔太が空港でトラブル ガソリンバーナー持ち込みで係員と押し問答、飛行機は30分遅延
3/2(木) 7:15配信 NEWSポストセブン
鳴り響く怒声に旅路を急ぐ人は振り返り、その声の主がわかると一様に驚いた。2月中旬の羽田空港。冬の北海道に向かうため、子供連れの家族やカップルであふれ返っていた空港内で、怒りと焦りの表情を見せていたのは、俳優の松田翔太(37才)だ。
「スラリとした長身のイケメンだったので顔をのぞき見ると、松田翔太さんで、びっくり。どうやら新千歳空港行きの飛行機に乗る予定だったみたいですが、荷物に関することで揉めているようで、係員と押し問答を繰り広げているように見えました」(空港の利用客)
3/2(木) 7:15配信 NEWSポストセブン
鳴り響く怒声に旅路を急ぐ人は振り返り、その声の主がわかると一様に驚いた。2月中旬の羽田空港。冬の北海道に向かうため、子供連れの家族やカップルであふれ返っていた空港内で、怒りと焦りの表情を見せていたのは、俳優の松田翔太(37才)だ。
「スラリとした長身のイケメンだったので顔をのぞき見ると、松田翔太さんで、びっくり。どうやら新千歳空港行きの飛行機に乗る予定だったみたいですが、荷物に関することで揉めているようで、係員と押し問答を繰り広げているように見えました」(空港の利用客)
昨年はドラマ『ムチャブリ!わたしが社長になるなんて』(日本テレビ系)への出演や、ドラマ『オリバーな犬、(Gosh!!)このヤロウ』(NHK)での兄・松田龍平(39才)とのサプライズ共演が話題を呼んだ翔太。そんな翔太が愛してやまないのがスキーだ。
「翔太さんは子供の頃、冬休みのたびに合宿制のスキー学校に預けられていたほど。しかも彼が好むのは普通のスキー場ではなく、リフトのない自然の雪山の頂上まで歩いて登り、そこから一気に滑り降りる『バックカントリー』というスキーです。
20代のときは仲間と一緒にカナダの山奥で1か月ほどキャンプし、滑りまくっていたほどのマニアで、最近も冬になると忙しい合間を縫って滑りに出かけているみたい。今回も北海道の雪山を訪れる予定だったと聞いています」(翔太の知人)
羽田空港でのトラブルのもとになったのも、雪山で利用するはずのアイテムだった。翔太の知人が話す。
「翔太さんはガソリンバーナーといわれるアウトドアグッズを荷物に入れていて、係員に呼び止められたようです。何人もの係員が対応し、『これは持ち込めないので、この場で破棄するか、飛行機に乗らずにお持ち帰りになるかどちらかにしてください』と事務的に説明されたようです」
機内への持ち込み禁止物をうっかり荷物に入れたままで、係員に指摘され破棄するシーンはたまにみられる。ほとんどの乗客は素直に係員の指示に従うが、翔太の対応はまるで異なっていたようだ。
「よくよく話を聞くと、翔太さんが荷物に入れていたのは、キャンプなどで使う新品のガソリンバーナー。携帯用の小さなもので、使用する際に燃料を入れて点火する商品です。中に燃料の入っていない新品の状態であれば、機内への持ち込みが可能となり、一転、中に少しでも残留があるとなると持ち込みが不可となるもののようです。
どうやら今回はその場で翔太さんが持っていたものが新品であるかどうか判断がつかなかったようで……。新品だと主張する彼と、少しでもリスクを避けたい航空会社との間で意見が衝突したのだと思われます」(前出・翔太の知人)
一連のやりとりの影響でフライトが30分ほど遅延し、彼は搭乗できなかったという。
共演NGの俳優もいる
父・松田優作さん(享年40)、母・松田美由紀(61才)、兄・龍平という芸能一家に生まれ育った翔太は、業界では“トラブルメーカー”として知られる節もある。
「とにかく気難しい役者として有名です。2016年の主演映画では、監督がOKを出したシーンに翔太さんが『納得がいかないから撮り直せ』と主張し、その後撮影を拒否してホテルに籠城したこともありました。こだわりが強いと言えばそうなのですが、プライドが高くナイーブな彼の性格を嫌って、共演NGを出している俳優もいると聞いています」(芸能関係者)
翔太は若い頃から素行を注意されることがあったようだ。
「中学時代は札付きのヤンキーといわれていました。母親の美由紀さんが彼の結婚式のスピーチで『翔太はヤンチャで、手のかかる子でした』とこぼすほどでした。
2007年には夕食のおかずのお肉を妹で歌手の松田ゆう姫さん(35才)と取り合った翔太さんがカッとなり、妹の顔を平手打ちした。そのまま兄妹でもみ合ううちにゆう姫さんが壁に後頭部を打ち付け、パトカーと救急車が駆けつける騒動がありました」(前出・芸能関係者)
私生活では2018年4月に大横綱・千代の富士の愛娘でモデルの秋元梢(35才)と結婚した。だが、その直後から夫婦の間には微妙な空気が漂い始めたという。
「4年ほどの交際期間を経て結婚したのち、翔太さんは“俺様気質”を隠さなくなったそうです。とりわけ翔太さんから『敬語を使ってほしい』と言われたことに梢さんが驚いたみたいで……。彼としては“夫を立ててほしい”という意味だったのかもしれませんが、梢さんは戸惑ってしまいました。それから夫婦の間にはすきま風が吹き続け、昨年には別居報道も飛び出した」(前出・翔太の知人)
ミステリアスな雰囲気で高い演技力が評価されている翔太。ストイックで天才肌な一面が、あらぬ誤解を生んでいるのかもしれない。とはいえ、今回の騒動については、彼にも言い分があるようだ。翔太の所属事務所はこう説明する。
「翔太さんは子供の頃、冬休みのたびに合宿制のスキー学校に預けられていたほど。しかも彼が好むのは普通のスキー場ではなく、リフトのない自然の雪山の頂上まで歩いて登り、そこから一気に滑り降りる『バックカントリー』というスキーです。
20代のときは仲間と一緒にカナダの山奥で1か月ほどキャンプし、滑りまくっていたほどのマニアで、最近も冬になると忙しい合間を縫って滑りに出かけているみたい。今回も北海道の雪山を訪れる予定だったと聞いています」(翔太の知人)
羽田空港でのトラブルのもとになったのも、雪山で利用するはずのアイテムだった。翔太の知人が話す。
「翔太さんはガソリンバーナーといわれるアウトドアグッズを荷物に入れていて、係員に呼び止められたようです。何人もの係員が対応し、『これは持ち込めないので、この場で破棄するか、飛行機に乗らずにお持ち帰りになるかどちらかにしてください』と事務的に説明されたようです」
機内への持ち込み禁止物をうっかり荷物に入れたままで、係員に指摘され破棄するシーンはたまにみられる。ほとんどの乗客は素直に係員の指示に従うが、翔太の対応はまるで異なっていたようだ。
「よくよく話を聞くと、翔太さんが荷物に入れていたのは、キャンプなどで使う新品のガソリンバーナー。携帯用の小さなもので、使用する際に燃料を入れて点火する商品です。中に燃料の入っていない新品の状態であれば、機内への持ち込みが可能となり、一転、中に少しでも残留があるとなると持ち込みが不可となるもののようです。
どうやら今回はその場で翔太さんが持っていたものが新品であるかどうか判断がつかなかったようで……。新品だと主張する彼と、少しでもリスクを避けたい航空会社との間で意見が衝突したのだと思われます」(前出・翔太の知人)
一連のやりとりの影響でフライトが30分ほど遅延し、彼は搭乗できなかったという。
共演NGの俳優もいる
父・松田優作さん(享年40)、母・松田美由紀(61才)、兄・龍平という芸能一家に生まれ育った翔太は、業界では“トラブルメーカー”として知られる節もある。
「とにかく気難しい役者として有名です。2016年の主演映画では、監督がOKを出したシーンに翔太さんが『納得がいかないから撮り直せ』と主張し、その後撮影を拒否してホテルに籠城したこともありました。こだわりが強いと言えばそうなのですが、プライドが高くナイーブな彼の性格を嫌って、共演NGを出している俳優もいると聞いています」(芸能関係者)
翔太は若い頃から素行を注意されることがあったようだ。
「中学時代は札付きのヤンキーといわれていました。母親の美由紀さんが彼の結婚式のスピーチで『翔太はヤンチャで、手のかかる子でした』とこぼすほどでした。
2007年には夕食のおかずのお肉を妹で歌手の松田ゆう姫さん(35才)と取り合った翔太さんがカッとなり、妹の顔を平手打ちした。そのまま兄妹でもみ合ううちにゆう姫さんが壁に後頭部を打ち付け、パトカーと救急車が駆けつける騒動がありました」(前出・芸能関係者)
私生活では2018年4月に大横綱・千代の富士の愛娘でモデルの秋元梢(35才)と結婚した。だが、その直後から夫婦の間には微妙な空気が漂い始めたという。
「4年ほどの交際期間を経て結婚したのち、翔太さんは“俺様気質”を隠さなくなったそうです。とりわけ翔太さんから『敬語を使ってほしい』と言われたことに梢さんが驚いたみたいで……。彼としては“夫を立ててほしい”という意味だったのかもしれませんが、梢さんは戸惑ってしまいました。それから夫婦の間にはすきま風が吹き続け、昨年には別居報道も飛び出した」(前出・翔太の知人)
ミステリアスな雰囲気で高い演技力が評価されている翔太。ストイックで天才肌な一面が、あらぬ誤解を生んでいるのかもしれない。とはいえ、今回の騒動については、彼にも言い分があるようだ。翔太の所属事務所はこう説明する。
「松田本人はトラブルではなく、航空会社のかたがたにご説明をしていた、という認識です。問題なのは、そのガソリンバーナーが新品かどうかを証明するものも手段もないことです。これは松田だけでなく多くの人が困る問題だと思います。
飛行機の遅延についても、松田はこのガソリンバーナーが機内に持ち込めるものだと丁寧に説明をし、航空会社も確認をしていたため、時間がかかったのだと思います。結果的に松田は飛行機に乗れず、何本か便を遅らせてようやく出発できました。後日、航空会社からはガソリンバーナーが返却されたと聞いております」
翔太にしてみれば、自分に落ち度はないといった思いなのだろう。これから雪山に行くのなら、ガソリンバーナーを携帯できないのは大打撃。抗議したくなる気持ちも理解できなくはない。一方、航空会社としては多くの乗客の命を預かる以上、どんな小さなリスクも見逃せない。万が一があってはいけないからだ。
コロナ禍でマスクの着用をめぐって大学職員と客室乗務員が口論になり、大学職員が逮捕された事件は記憶に新しい。いずれにせよ、飛行機に乗る以上は航空会社に従うべきというのが大勢の意見ではないだろうか。
※女性セブン2023年3月16日号
飛行機の遅延についても、松田はこのガソリンバーナーが機内に持ち込めるものだと丁寧に説明をし、航空会社も確認をしていたため、時間がかかったのだと思います。結果的に松田は飛行機に乗れず、何本か便を遅らせてようやく出発できました。後日、航空会社からはガソリンバーナーが返却されたと聞いております」
翔太にしてみれば、自分に落ち度はないといった思いなのだろう。これから雪山に行くのなら、ガソリンバーナーを携帯できないのは大打撃。抗議したくなる気持ちも理解できなくはない。一方、航空会社としては多くの乗客の命を預かる以上、どんな小さなリスクも見逃せない。万が一があってはいけないからだ。
コロナ禍でマスクの着用をめぐって大学職員と客室乗務員が口論になり、大学職員が逮捕された事件は記憶に新しい。いずれにせよ、飛行機に乗る以上は航空会社に従うべきというのが大勢の意見ではないだろうか。
※女性セブン2023年3月16日号
歩きタバコの友人が怒鳴られ「逆ギレ」で賛否 松田ゆう姫「わーった、わーった」反論も...投稿削除
2022年05月27日21時08分 JCAST
タレントの松田ゆう姫さんが2022年5月25日放送の「5時に夢中!」(TOKYO MX)で友人の歩きタバコを注意され「逆ギレ」したエピソードを語り、同日深夜にツイッターで自身に対する批判に反論した。投稿は27日昼までに削除されている。
「『その怒り方はないんじゃないですか?』って怒り返した」
松田さんは番組で「最近誰かに怒られた、激怒されたことがあるか」という質問に、通りすがりの男性に怒鳴られたことがあると語った。
「結構前ですけど、友達と2人で歩いていたんですよ。私が前を歩いていて、友達が電子タバコを歩きタバコしちゃっていて。そのまま進んでいたら、後ろからおじさんの怒号がブワッと聞こえて。『路上でタバコを(吸うな)!』みたいなすごい声して、心臓止まるくらいビックリして。ドキーッて」
その後の展開をこう語っている。
「確かに歩きタバコを叱咤されてたんだけど。そのおじさんが70とか......70以上くらいのおじさんで、スタスタスターって歩いていっちゃったんだけど、怒鳴り声の恐怖がすっごく嫌で。そのまま、おじさんのところに行って『その怒り方はないんじゃないですか?』って怒り返した」
「(おじさんのところに)行ったん!? ええっ!?」と驚く共演者のヒコロヒーさんに対し「だって、あまりにもショックだった。恐怖だったから。そんなことあるの? って」と追いかけた理由を語った。
ヒコロヒーさんが「それさ、おじさんはなんて(言った)?」と聞くと、松田さんは「何か『うう~ん』とか言って、そのままスタスタスターって行っちゃった」と振り返った。
番組MCの垣花正アナウンサーが「悪いのは確かに松田さんのお友達かもしれないけど、驚かされたというか、言い方にちょっと」とフォローすると、松田さんは「いきなりマックスの怒鳴り声で、あれはもはや暴力かなと思って」としていた。
「ゴジムでの発言に関して断面だけ見て判断してくるアンチの皆様」
松田さんの発言をめぐっては「相手を怒るな、友達に怒れ!」「いきなり怒鳴る人がいますが、それが暴力行為だという意見には同意」「逆切れするこの態度が最悪だ」などネット上で賛否の声が相次いだ。
放送後の26日までに、松田さんはツイッターを更新。番組内での発言に対する批判に対しての反論とみられる。
「ゴジムでの発言に関して断面だけ見て判断してくるアンチの皆様 よしよし、わーった、わーった しかないです。Get a life(編訳:放っておいて)」
27日昼までに投稿は削除されている。
松田ゆう姫、友人の歩きタバコ怒鳴った人に怒り返す…生放送での炎上発言への批判にMX「真摯に受け止め」
2022年5月28日 8時0分スポーツ報知
生放送でのその発言を聞いた瞬間、これは「炎上」の危険性がある―。まず、そう感じた。
25日放送のTOKYO MX「5時に夢中!」(月~金曜・午後5時)。曜日コメンテーターのタレント・松田ゆう姫(34)が“暴走”した。
この日の番組で「他人に激怒された経験があるか?」という話題になると「結構、前ですけど…」と前置きして、こんなエピソードを披露した松田。「友だちと2人で歩いていたんですよ。私が前を歩いていて、友だちが電子タバコ、歩きタバコをしちゃっていて。後ろからおじさんの怒号がブワッと聞こえて。『路上でタバコを!』みたいな、すごい声がして、心臓止まるくらいビックリして」と話すと、「確かに歩きタバコを叱咤(しった)されたんだけど、そのおじさんが70以上くらいでスタスタって歩いていっちゃったんだけど、その怒鳴り声の恐怖がすごく嫌で。そのまま、そのおじさんのところに言って『その怒り方はないんじゃないですか?』って怒り返したの」と明かした。
共演のお笑いタレント・ヒコロヒー(32)が「えっ? 怒り返したの?」と驚くと、「だって、あまりにもショックだったの。恐怖だったから。そんなことあるの?って」と松田。ヒコロヒーが「おじさんはなんて言ったの?」と重ねて聞くと、「何か『う、う、う、うう~』とか言って、行っちゃった」と答えた。
ここで、MCの垣花正(50)が「悪いのは確かに松田さんのお友だちかも知れないけど、驚かされたというか、言い方がショックというか」と言うと、松田は「いきなりMAXの怒鳴り声で、あれはもはや暴力だと思った」と答えた。
普段なら番組を面白くするために多少の“あおり”を入れる垣花も「悪いのは確かにお友だち―」と口にし、これまで「まったく、お嬢様なんだから」と松田を上手にたしなめてきたタレント・小原ブラス(30)も黙り込んでしまう“笑えないエピソード”だった。
松田の言葉をそのまま記事にした「報知WEB」にも、その言動への批判の声が集まった。
「おじさんの怒り方も良くないけど、それに対して文句言うのは、まず歩きタバコを反省してから」
「歩きタバコをしていた友達を止めずに怒ったおじさんに逆ギレですか…」
「おじさんの方も言い方があった。誰でもいいから怒りをぶつけたかったのでは?」という突然、怒鳴った男性の行為を問題視した言葉もあったが、多くは歩きタバコという行為自体への批判の声だった。
東京都の条例で路上喫煙が禁止されているように完全分煙が定着しつつある今、歩きタバコをする人はかなり減った。それでも、ごくたまに遭遇した際の不快感は確かにある。タバコを指に挟んで歩いている人を見て、その火が背の低い子どもの顔をかすめたら―。そんなことを想像して、ぞっとした経験は誰にでもあるのではないか。
そして、大きな疑問が一つ。松田はなぜ、これほど無防備なのだろう?
今年2月2日の同番組でもこんなことがあった。「あなたは理不尽にキレられたことがありますか?」というテーマについて聞かれた松田は「電車に乗っていて、コンパクトミラーを開けて、リップを塗っていたんですよ。そうしたら、おじさんがバーッと来て『電車の中で化粧なんてしてるんじゃねえ!』って怒鳴られたわけよ」と発言。
「イラッとして『えっ、どうしてですか? なんでダメなんですか?』って聞いたの。しかも、リップだったし。そうしたら『みんなに迷惑かかってんだよ!』って言うから、さらにイライラして『ご迷惑でしたか?』って(電車内の)みんなに聞いたの」と続け、「だけど、結局、私が変な人扱いされて、みんなシカトですよ。全員、無視。シーンとなって、おじさんも降りてっちゃって、私だけ『えっ?』みたいな」と話した。
この際も「電車内は公共の場。自分の部屋と勘違いしているのでは」などの批判の声が相次いだ。「いきなり怒鳴るおじさんも大人げない」という意見もあったが多くは松田の言動への不快感を示すもの。松田VSおじさんという構図が今回も繰り返されたと言える。
2月の「電車でリップ」発言の際も1週間後の生放送で小原に「あなた、ネットで結構、炎上しているわよ」と暗に騒動について指摘され、「何? 知らない」と答えた松田。共演の作家・岩下尚史さん(60)にも「あなたには歌舞伎の家に生まれた女の子みたいなところがあるわよ」と、その浮き世離れした部分をやんわりいじられたが、「えっ? よく分からないな」と苦笑していたのを覚えている。
1989年に40歳で亡くなった俳優・松田優作さんと女優・松田美由紀(60)との間に生まれ、松田龍平(39)、松田翔太(36)という2人の兄も俳優という芸能一家に生まれ育った松田。繰り返される騒動が現すように、その独特の魅力が「天然」と呼ばれる自身の発言や行動の重さがあまり分かっていない自由奔放さにあるのは間違いない。今回の発言も「この話、ウケるかな?」と思って披露した節もある。ただ、その何者をも恐れない発言には他人の言動への不寛容さが跋扈(ばっこ)するこの時代において、常に炎上の危険性がつきまとう。
だからこそ、彼女を生出演させる制作側にこそ慎重さが求められる。問題の2回の放送での番組テーマが「他人に激怒された経験があるか?」に「あなたは理不尽にキレられたことがありますか?」―。これは松田がコメンテーターの回に用意するテーマとしては、あまりにも無神経過ぎないだろうか。
そのテーマについて事前の打ち合わせの段階で、話したい内容をヒアリングした上で本人に「そのエピソードは炎上の可能性がある。やめましょう」と助言するスタッフはいなかったのか。
この疑問をそのまま、TOKYO MXにぶつけてみた。
「ご指摘の点は真摯(しんし)に受け止めさせていただき、さらに身を引き締めて番組を制作してまいります」という、まさに真摯な言葉が返ってきた。
各曜日に「よくぞ、この人を選んだ」と感心するようなコメンテーターが勢ぞろい。毎回、スレスレのコメントで番組を彩る「5時に夢中!」には他の番組にはない生放送ならではの魅力があふれている。だからこそ、生放送での問題発言発生後に収録放送への変更を余儀なくされた他の番組のようになってほしくない。
エッジの効いた発言で話題を集めるのが番組の狙いであるなら、なおさら生放送のちょっとした発言が炎上するこの時代にタレントを守る配慮が局側には求められる。
テレビ画面の向こうで共演者の固い表情と裏腹に、きょとんとした表情を浮かべる松田を見ていて、心底、そう思った。(記者コラム・中村 健吾)
自己責任で食べました
部屋を掃除ていると、なんと、2年半以上前に賞味期限が切れたスニッカーズを発見した。
開いて見ると、チョコレートは変色して、しかも香りは全く無い、パサパサしたものに変質していた。当然だろう、2年半以上も前のものなのだから。
しかし、「物を大切にする」昭和生まれの私は捨てるに惜しいと思った。
食べてみても、最悪、下痢をするくらいだろう。
チョコレートが毒に変質していることはないだろう。
というわけで、「自己責任」で食べてみた。
食べて1時間経った今のところ、腹痛も下痢もおこしてはいない。
ちなみに、スニッカーズの味は全くしない、甘いキャラメルクリームのところも、全く味は無かった。
教訓:食べ物は賞味期限以内に食べるように注意する、今後は必ず。
中国製だったんだ。
函館国際ホテル
2023/03/02 07:05 読売新聞
北海道函館市内のホテルは競うように朝食を豪華にし、「朝食戦争」とも評される。新型コロナの感染拡大が落ち着き、観光客が再び訪れるようになっており、コロナによる落ち込みの巻き返しのために火花を散らす。各ホテルは、火付け役の人気旅行サイトのランキング上位に食い込もうと意気込んでいる。(安井良典)
2月中旬の午前9時、「函館国際ホテル」1階。ビュッフェ形式の朝食ブースは、多くの観光客でにぎわっていた。
人気を集めるのは、イカやサーモンなど好みの刺し身を選び、イクラもかけ放題のオリジナル海鮮丼だ。「ジュー」という音を出す鉄板では、シェフが牛ステーキを焼いていた。そのほか、当日作りたての湯豆腐や手作りパン、薬膳スープカレーといった変わり種まで常時約120種の料理が並ぶ。
北海道外からやってきた家族と朝食をとっていた市内の会社員(27)は「海鮮に特化するのではなく、ほかの料理も充実しており豪華。市民も気軽に来られ、家族も喜んでくれる」と笑顔で話す。
「函館の朝食」の人気に火を付けたのは、人気旅行サイト「トリップアドバイザー」の日本版だ。宿泊客の投票で決める「朝食のおいしいホテルランキング」が2010年から始まり、「ラビスタ函館ベイ」は11、12年と2年連続で日本一の栄冠に輝いた。以後も毎年上位に名を連ねる。
それ以前は、JR函館駅前に広がる「朝市」に繰り出して朝食をとるのが観光客の定番だった。だが、ラビスタ函館ベイが注目を集めたことで、ほかのホテルも豪華朝食の提供を始めた。14年には函館国際ホテルが同ランキングの5位に入った。
地元で 切磋琢磨せっさたくま した結果、20年4月に発表されたランキングでは、ラビスタ函館ベイが3位、函館国際ホテルが5位、「センチュリーマリーナ函館」が8位と、全国トップ10に市内の三つのホテルがランクインする快挙を果たした。いずれもイクラをはじめとした海鮮や作りたてデザートなどがビュッフェスタイルで楽しめる。
3ホテルは函館駅近くにあるが、湯の川地区でも豪華朝食を売りにした「函館湯の川温泉 海と灯」が21年7月に開業した。
21、22年はコロナの影響でランキングは実施されなかった。トリップアドバイザーは今年実施するか明らかにしていないが、ホテルは再開を待ち望む。
函館国際ホテルの客足はコロナ前の水準に戻ってきており、佐藤則幸・総支配人は「海鮮だけでなく和洋中幅広くそろえており、外国人も含め幅広い層のニーズに対応している。今後もサイトの上位を目指していきたい」と意気込んでいる。
ラビスタ函館ベイは、「ランキングも励みになるが、お客さまの声を 真摯しんし に受け止め、次回さらに良くなっていると言っていただけるようお迎えしたい」としている。
(引用終わり)
ワインに詳しいわけではない。しかし‥‥。
函館国際ホテルの朝食会場に置いてあったこのCARTA MAGNAのクラシコは、以前飲んだことがある。スーパーホテル石狩は、夜にアルコールを無料で食堂で提供している。食堂といっても朝食会場であり、夜はワインやウイスキー、日本酒、焼酎などを宿泊者に提供しているのである。ここで出ていたワインが、このCARTA MAGNAのクラシコだった。ワインに詳しくない私でも、今まで何百回となくワインを飲んだことがあるけれども、断言できるのは、このチリワイン以上に不味いワインは記憶がないということ。
朝から酒なんか飲むなよ、という倫理的に素晴らしいメッセージを伝えるために函館国際ホテルはこの不味いワインだけを提供しているのだろう、そう考えれば納得ができる。
2023年2月25日土曜日
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