講談社 世界の歴史3 永遠のローマ 弓削達 1976年
P98〜
東の政情
この同じ時期の東の帝国における政治史的推移は、西の帝国とまったく対蹠的であり、外的な脅威はフン族とペルシア帝国のみであったといっても過言ではない。ペルシアとの戦争は四二一年と四四一年に行なわれ、いずれもローマ側の勝利に終わったが、このいずれの機会をもフンは利用してドナウを渡ってトラキアに侵入している。それよりまえ、四〇八年ウルディン王のもとにフン族が侵入したときはローマ側の外交的工作によってフンの従属民が離反し、
配下のスキラェ族数千をすてて逃げ去っている。
フン族の強大と、またその弱点は、その膨大な従属民支配にあり、移動にさいして伴っていったその従属民はフン族の恐ろしい戦力になると同時に、四囲の状況によってはかんたんに瓦解するという脆弱さをもっていた。これ以後、四二二年、四三四年、四四一年、四四七年と、数次にわたる侵入が記録され、そのたびに年金の支払いをうけたり、定住地を獲得したりしている。とくに注意をひくことは、フンの侵入の口実である。それはこういうことである。フンの従属民でありながら反乱した部隊がローマ領内に逃げ込むのを阻止する、という約束が四二二年にとりきめられたが、その約束がその後もくり返された。しかし、この約束に違反した、ということ、ことに逃亡したフン従属民をローマ軍に採用した、ということが、くり返しフンによって抗議され、それが新たな侵入の口実となっているのである。
ホノリアの情事の結末
フンの脅威はまもなく東から除かれ、彼らは西に向かう。なぜ東から引き上げたのか、その理由は明らかではない。四四七年の戦争後アッティラは、ドナウの南岸五日の行程の帯状地帯の定住許可を要求したので、ローマ側は四四九年アッティラの暗殺を計画した。しかしその計画はアッティラに知られ、アッティラは、暗殺を命ぜられてきたローマの使節に証拠を見せつけて追い返すことができた。不思議なことにアッティラはそれ以上ローマの責任を追及することなく、翌四五〇年ローマと平和条約を結び、要求をとり下げ、いままでの定住地を引き払い、西に移動してしまったのである。理由ははっきりしない。彼が東からゆすり取る限界を知って西に目を向けた、としか言いようがない。
しかし、彼の西進のきっかけははっきりしている。それはこういう事件である。
西の皇帝ウァレンティニアーヌス三世の三十一歳の未婚の姉ホノリアは自己の所領管理人エウゲニウスとの情事を重ねていた。それが露頭し、エウゲニウスは処刑され、彼女はコンスタンティノープルに追放された。彼女は罪を悔いるどころか弟を恨み、アッティラに保護を求める手紙と金を送り、その手紙が真正であることの証明のために使者に自分の指環をもたせてやった、というのであった。
この微妙な国際関係の中であきれるほどの浅薄さである。コンスタンティノープルの皇帝は、禍いがふりかかるのを恐れて彼女と、使者をつとめた男をラヴェンナに送り返した。ウァレンティニアーヌス三世はホノリアに激怒し、使者の男を直ちに処刑したが、姉弟の母ガッラ=プラキディアの嘆願によってホノリアの処刑は思いとどまり、彼女の情事事件のときすでに婚約していたらしい男性とただちに結婚させた。
フン帝国の瓦解
ホノリアが処刑されていたら問題はそれで終わったかもしれない。しかしホノリアはともかく健在なのだから、アッティラはホノリアの手紙と指環を結婚の申込みと解することに決め、これを根拠にホノリアを自分の婚約者と宣言し、だから自分には帝国の半分の相続権があると主張して、大軍をもってガリアに攻め入ってきた。これを迎えうったのはアェティウス指揮下の西ローマ全軍で、それはローマ正規軍のほか、ガリア定住の西ゴート・フランク・ブルグンド・サクソン等ガリア定住の同盟部族、個別定住の蛮人(ラエティ)の大召集軍から成った。
決戦は四五一年、カタラウヌム(シャーロン=シュル=マルヌ)の野で行なわれた。大激戦であったが、決定的勝敗はもたらされなかった。しかしアッティラの軍は退却を余儀なくされた。翌四五二年、アッティラはいったんイタリアに侵入したがすぐに退去、その年のうちに急死した。これ以後フンは小集団に分裂、帝国は瓦解し、フンの脅威は東西いずれにおいてもこれ以後消滅した。これで一時代終わるのである。
P175〜
ローマの死と復活ーーサルウィアーヌスのばあい――
「死」にしか値しないローマ文明
この道をいっそう厳しい思いで進もうとするとき、ローマとローマ的文明の死とは、それ自体の力が弱まったゆえの死ではない、蛮人の力が圧倒したがゆえの死でもない、ローマとローマ的文明とはそれ自体本質的に死であるとしか言いようがない否定的な価値のものであった、生の名に値しないものであった、という認識にいきつかざるをえない。このような認識に到達してはじめて、復活への信仰が強固なものとなるのである。こうした厳しい思いで進もうとしたローマ人が現実に存在した。その一人はサルウィアーヌス(四〇〇年ころ〜四七〇年以後)である。彼はトレウェリ(いまのトリエル)の生まれ、四一八年のフランクの攻撃を体験した。四三九年ころから死までマッシリア(いまのマルセイュ)の司教であった。
サルウィアーヌスもまた、この時代におけるローマの死をいかにうけとめ、いかにして生への道を探るかを、問いつづけた一人であった。彼の主著『神の支配について』は、その追究の記録である。四三九年以後の執筆であるが、四五一年のカタラウヌムの野の戦いは、まだこの書には知られていない。
まえにふれたオロシウスは、ローマはキリスト教の受容のゆえに衰退したのだ、とする異教徒の攻撃にこたえた歴史的弁証論を書いたのであったが、サルウィアーヌスは、同じような疑問におちいっているキリスト教徒に対して、その懐疑を解くために執筆している。ローマは十字架の神のもとに身を委ねたのに、なにゆえにローマはかくも苦しみ、災難をうけ、いまにも全面崩壊しなければならないのか。神の支配、神の摂理などないのではないか。これが彼らの深刻な懐疑であった。
笑いつつ死を急ぐ
ローマの勝利と支配とは、ローマ人の勇気と徳のゆえである、とサルウィアーヌスは断言する。その点で、ローマの勝利は支配欲・金銭欲・奢侈欲によって獲得されたもの、しかも神の意思がそれを欲したがゆえに可能であったもの、と考えたオロシウスとは、すでに根底において考え方を異にしている。
しかるに現代のローマ人はその支配を喪失し、個人個人の生活もまた脅かされている。その理由はただ一つ、ローマ人が肉欲的快楽に走ったからである。倦まずたゆまず努力する謹厳な生活態度をすて、安楽と贅沢を好むつまらない人間になったからだ。危険と戦おうとする緊張を失い、危険を恐ろしいと感ずる正常な感覚をすら失ったからだ。ローマは笑いつつ死を急いでいる、と彼は言う。
蛮人の侵入は、このような憎むべき悪徳、完全なる堕落に対する、当然の報い、正しい刑罰である。侵人蛮族は、アリウス派異端であるかもしれない。異教徒であるかもしれない。彼らなりに悪徳をもってもいるだろう。しかしながら、そのような精神的盲目にもかかわらず、残忍さや不信実にもかかわらず、彼らは、ローマ人と比べるならば、道徳的にはるかにすぐれているのである。
彼らには、カトリック信仰の与える完全なる光は与えられていないが、それでも彼らは、アクイタニアのキリスト教徒の水準にまではけっして堕落していないのだ。アクイタニア―ーそこでは、すべての地主の所領は、大々的な放蕩の舞台になっているのだ。
ヴァンダルは臆病で気の弱い種族ではあろう。しかし彼らは、アフリカの壮麗なるローマ文明を倒したし、口にするのもいまわしいような醜悪な悪徳を一掃したのである。正義の神が、キリスト数的ローマ世界の極悪なる頽廃を罰するために、偉大なる遺産を彼らに与え給うたのだ。
社会的不正の科弾
サルウィアーヌスはさらに、支配者としてのローマ人とゲルマン人が、同じように著しい対照を示していることをみいだす。帝国役人の抑圧と不正な公金私消。国家から課される負担を巧みに逃れてより貧しい隣人に押しつけ、貧しい者たちを破滅に陥れる上流社会の人びとの厚かましい詐術。サルウィアーヌスはそれらを徹底的にあばき出す。ローマ人の悪徳を糾弾する彼の筆には、誇張のにおいを感ずる人もいるであろう。しかしサルウィアーヌス描くところの行政的・社会的・財政的不正の数かずは、皇帝たちがそれを禁圧するためにつぎつぎに発した勅令によって、十二分にその真実性が証明されているのである。こうしたローマ社会の実情、そこから生まれてくるところの、抑圧された人びとが新入蛮族支配者によせる好意的感情、これこそがサルウィアーヌスの筆の照らし出す真実の画像である。
オロシウスにも、ローマ人の快楽追求と肉欲の喜びを求める態度が神の審きを招いた、とする指摘が一、二ヵ所にみいだされる。しかし、特権階級の悪徳のみならず、社会的不正と利己的個人主義を徹底的に攻撃する点において、サルウィアーヌスほどの熱情を示した者はほとんど他に例がない。ことに、明確に、困窮した者、虐げられた者、友なき者の立場に身をおき、彼らに対する熱情的な同情の視点から論旨を展開した者は、サルウィアーヌスのほかにはいなかった、と言ってよかろう。
こうした視点の徹底の結果、一般にはこの時代の不正の犠牲者とみなされがちな地方諸都市の参事会員(クリアーレス)すら、彼の非難攻撃を免れていないのである。彼らもまた、みずからにかけられた負担を、自分以下の者に押しつけた残酷なる抑圧者とみなされるのである。
ローマ的人間性は蛮人のもとにある
社会のいちばん底辺の人たち、貧しい農民たち、サルウィアーヌスの同情は彼に向けられる。彼らが、高圧的な微税役人や、金持ちの大地主の抑圧や詐術にさらされ、そこから逃げる道は、二つしかなかった、と言う。一つは、近隣の有力な金持ち、大地主の保護を求めることであった。しかしそのさい農民は、最後にわずかに残っている一片の土地を大地主に献上しみずからの自由をも放棄しなければならなかった。パトロキニウムと呼ばれたこの方法に、かなり多くの農民は頼らざるをえなかった、と言う。
もう一つの方法は、西ゴート王の支配下の領域に逃げてゆくことであった。ローマ領内にとどまるよりも、ゴート王のもとに行くほうがましだと考える農民が多かった、とサルウィアーヌスは言う。ローマ領内で蛮人的非人間性をみるよりも、ローマ領内においては享受することのできないローマ的な人間性を、人びとは蛮人のもとで得るのだ、と言う。人間性と正義において、西ゴート人はローマ人よりはるかにまさっていた。だから多くのローマ人はゴート人の支配のほうをよいと考えたのだ、という率直な指摘こそ、ローマの、「本質的な意味における死」を宣告したものでなくしてなんであろうか。
P204〜
それはともかく、そこ(『アグリコラ』)にはまずつぎのような叙述がみいだされる。
ブリタニア人はガリア人が渡来したものであろう、という推定を述べたところで、タキトゥスはこう記す。「しかしどちらかというと、ブリタニアの住民のほうが、いっそう狂暴性をひけらかす。これは、まだ彼らの性格を、長い平和がやわらげていないためだろう」。かつてガリア人も戦争で強かった。「しかし、やがて平和の訪れとともに、不精が彼らの心の中にはいりこんだ。そして勇気とともに、独立と自由の精神まで失ってしまった」(11)。
つまり平和とは、狂暴性をやわらげ、不精の心をつくり出し、勇気と独立と自由のの精神を失わせるもの、と考えられている。どのような道筋によってか。「兵の微集や貢物、その他ローマの統治権が彼らに強いる義務を、不平をこぼさずに果たす」(13)ようにさせることによってである。ローマ人は、ブリタニア人を奴隷と同じ境涯におとしいれるために、「王すらも道具として利用するという政策に従って、コギドゥムヌス王」にいくつかの部族を「贈物として与えた」(14)、と記される。
王妃ボウディッカの反乱
ローマ人は、このようにローマに忠誠な王を強め利用することによって、自分たちに対する義務をブリタニア人に押しつけた、というわけである、しかし、ブリタニアの住民はいつまでも忍従していない。彼らは「お互いどうし、隷属の不幸な身分を語り合い、不当な被害をくらべあ」って、つぎのように言う。
「忍従して得られるものは、なにもない。ただ、⋯⋯ますます難しい命令を強制されることになるだけだ。昔、われわれは、誰もが一人の王をもっていた。ところがいまは、みなが二人ずつの王をあてがわれているのだ。一人の王である総督(レガートゥス)は、われわれの血に対して、もう一人の王の属州財務官(ブロクーラートル)は財産に対して狂暴性を発揮する。⋯⋯一方の手先は百人隊長(ケントゥリオ)であり、もう一方の手先は(下吏役をつとめる)奴隷身分の者で、どちらも、暴力と侮辱をかわるがわるに加える。⋯⋯われわれには、祖国と妻と両親が、彼らには、強欲と贅沢が、戦争の動機である」。だから、断乎として決起するならば、絶対に負けることはない、と。
このように考えて、かつてブリタニア人は、王妃ボウディッカを指導者として蜂起した(15、16)。六一年のことであった。
ボウディッカの反乱は、同じタキトゥスの『年代記』一四巻三一以下にさらに詳しく伝えられている。彼女の夫、イケーニー族の王プラスタグスが死ぬと、ネロに多くの遺贈をしたのに彼女の王国はローマ側からひどい仕打ちをうけた。ローマの軍隊や役人たちは、まっ先に、「王妃ボウディッカを鞭で殴り、二人の娘を凌辱した。ついでイケーニー族のすべての豪族から、祖先伝来の地を没収し、王の外戚を奴隷としてとり扱った」(『年代記』一四・三一、以下、この『年代記』も、国原吉之助氏訳を参考にして引用)。
奪われた自由のために
反乱は当初ボウディッカ側の大勝利と徹底的な殺戮で進行した。しかしけっきょく、態勢を整えて大挙来援したローマ軍に殲滅されるのであるが、この最後の決戦のまえにボウディッカは、娘たちを自分の車にのせて兵士たちの間を駈け廻って、つぎのように叫んで励まして歩いた、という。
「プリタニア人は、昔からよく女の指揮のもとに戦争をしてきた。しかしいま私は、偉大な王家の子孫として、私の王家と富のために戦うのではない。人民の一人として、奪われた自由と、鞭で打たれた体と、凌辱された娘の貞節のため、復讐するのである。ローマ人の情欲は、
もう私らの体はおろか、年寄りの女や処女までも、一人のこらず辱めずにはおかないまでに烈しくなった。しかし神々は、私らの正義の復讐を加護している。それが証拠に、あえて戦いを挑んだローマの軍団兵は全滅した。⋯⋯この戦いにどうしても勝たねばならない。でなかったら死ぬべきである。これが一人の女としての決心である。男らは生き残って奴隷となろうと、勝手である」(同、三五)。
すでにそれ以前にローマの植民者や市民が少なくとも七万人は殺されていた。
な、ボウディッカ側は戦死八万人を下らず、ローマ軍の損失は四〇〇人で
アグリコラは、こうした歴史の体験から学んだ。『アグリコラ伝』はつぎのように述べる。
키용카르# 롤운 응田중는 - 순을 동비을!
任能得继
エルサレムでの戦闘は終わったが、反乱の残党はな
お各地の城砦にたてこもって、ゲリラ的な抗戦をつづ
けた。最後まで徹底抗戦したのは、マサダに拠った熱
心党であった。この地は、かつてヘロデ王が離宮を建
てたところであるが、その後ローマ軍が占領していた。
それを、まだ緒戦のころ、反乱指揮官のメナヘムがこ
こに遠征して占拠し、そこから武器をとってきたとこ
ろであった。マサダは、一九六三年から六五年のあい
だに二回にあたるイスラエル古
の発掘によって、その全貌をいまや明らかにしつつある。
マザタ
くサダの崩落は、さらに三年の月日を要した。死海西岸の、息をのむような要害の地に
たてられた皆は、シリア総督シルウァの本格的な攻城によってようやく落とされた。一
五Oメ-トルも高く味える城睡上にまで、皮士吉停款前高山克汽于汽场汽药
遠ってなめこここぁ、ま
学
著
117 ティトゥスのエルサレム占領
82年ロ―マのフォールムニローマーヌ
図はそれに刻まれた浮彫りで、エルサ
かついで凱旋行進をしている
吾葉計
皇
特!
とうせん
1
どうせん
五〇メートルも高く聳える城壁上にまで、彼は斜道を作らせ、その上に攻城槌や投石器・投箭器
を使って攻めたてたのであった。
いよいよ落城が必至となったとき、守備隊の長エレアザルは、ヨセフスの伝えるところによる
と、全員の自殺を、くり返して兵士たちに説いた。彼はつぎのように語ったという(引用の訳文は、
Y・セディン『マサダ』田丸徳善訳、に従った)。
「われわれはかれらローマ人に叛いた最初の者であったが、またかれらと戦ってきた最後の者で
われわれがまだ勇敢に、自由のまま死ねるというのは、神が与えたもう
ではいられない。⋯⋯われわれが一日のうちに捕えられるであろうことは非常に
ているが、最も親愛なる同志たちといっし
栄ある死をえらぶことはまだできる。⋯⋯
「われわれは、自らは神に対して罪を
おかさず、また他の人びとの罪の仲間
でもなかったので、われわれだけは自
由の状態を保ちえたと心弱くも希望し
ていた。またわれわれは、他の人びと
にも自由を保つように説いてきた。そ
れゆえに、われわれの今いるような絶
望的なしかもわれわれのすべての予期
118マサダ ユダヤ砂漠の東の
縁に位置し、死海西岸に向かって
400メートル近く急斜面をなすマ
サダの岩山。熱心党の最後の拠点
であり、第1次ユダヤ戦争の最後
の戦いでもあった
光
239
平和の代償
をこえる状態の中で、われわれに苦難をもたらすことにより、神がわれわれの望みの空しいこと
を自覚させられたことを考えてみよう。
「というのは、それ自体難攻不落であったこの要塞も、われわれの救いの手段ではないとわかっ
たからである。しかも、まだ豊富な食料や、大量の兵器や、われわれの必要とする以上の必需品
をもち乍ら、われわれは神自身により、明らかにあらゆる救出の望みを絶たれている。われわれ
の敵の方へ吹きつけられた火の手は、自然にわれわれの手でつくった城壁の方へ向きを変えたの
ではなく、これはわれわれが同胞に対して、最も不遜かつ無法な仕方でおかしてきた多くの罪に
対する、神の怒りの結果だったのである。このことに対する罰を、ローマ人たちの手からでなく、
われわれ自身の手によって執行される、神自身からのものとして受けとろうではないか。」
不利に吹いた神風
ここに記されているような、急激な風向きの変更は、マサダ頂上では現実に生
じることであることを、発掘隊は確認した、という。エレアザルは、それを味
方に不利に吹いた神風と解したのである。だから、この神の審きを、みずからの手で執行しよう、
というのである。その執行方法をさらに具体的につぎのように提案する。
「辱めを受けるまえに、われわれの妻たちを、そして奴隷の経験をするまえにわれわれの子らを
死なせよう。そして、かれらを殺害したのち、われわれは互にあの光栄ある恩恵をあたえ合い、
われわれのためのすばらしい弔いの記念として、自由を保持してゆこうではないか。しかし、ま
ずわれわれの要塞と金銭とを火によって破壊しよう。というのは、私は、ローマ人にとってわれ
・んゅ⋯と善一:、
240
を自由にできず、また富をも用いられないことは、大いに悲しいことであると確
ているからである。
「そして、われわれの糧食のほか、何も残さずにおこう。なぜなら、これらの糧食は、われわれ
が死んだのちに、われわれが必需品の欠乏のために負けたのではなく、われわれの最初からの決
意により、奴隷になるよりは死をえらんだことを証してくれるものだからである。」
ェレアザルのこの提案にただちに賛成しない者も少なくなかった。彼らに対して、
さ
らに強い
説得がくり返された。
「われわれの妻や子
妻子を刺し殺して
だわれわれにできるあいだに、われわ
供を憐むことが、ま
れ自らと妻子たちを憐れもうではない
か。なぜなら、われわれは、われわれ
の産んだ者たちと同じく、死ぬために
生まれたのであり、われら種族の中の
最も幸福なる者といえども、それをさ
ける力はもたないからである。しかし、
屈辱と奴隷の身分、そして子供らとと
119マサダの発掘品
食料品(上),銀札(下)
241
平和の代償
0100-年
洋你
もに不名誉な仕方で連れ去られるわれわれの妻たちを見ることは、人間にとって自然でかつ必然
的な悪ではない。⋯⋯
「いまわれわれの手はまだ自由の中にあり、その中に剣をもっている。それらをわれわれの光栄
ある意図に役立てようではないか。われわれが敵の奴隷にされるまえに、死のうではないか。そ
してわれわれの妻子たちとともに、この世界をすてて自由の状態におもむこうではないか。」
ついに兵士たちは全員、エレアザルと同じ熱意に動かされ、他人におくれをとるまいとみずか
らの家族のもとへ帰った。それからの成り行きをヨセフスはつぎのように記す(つぎの訳文もセ
ディンー田丸訳)。
夫たちは優しくその妻を抱擁し、子供らを腕に抱き上げて、眼に涙をうかべながら、長い長い
別れの接吻をした。しかも同時に、彼らはその決心を遂行した。それはあたかも、他人の手によ
って処刑されたかのようであった。⋯⋯これらの者たちのうち、この恐ろしい処刑の役を行なう
のをためらった者はなく、全員がそのいとしい近親をあの世へとおくったのであった。彼らはな
んと哀れな者たちであったことか。
九六〇人の自決
彼らは、目前にせまったもろもろの悪の中でももっとも軽いものとして、みず
からの手で妻や子を殺害せざるをえない窮状におかれたのであった。こうして
、みずからの行なったことに対する悲嘆にもはや耐えることができず、ごく短い
きのこるにすぎないことさえも、みずからが殺害した者に対する不正であると思い、すぐにみず
242
からの所持品のすべてを積み上げ、それに火を放った。
それから彼らは、他の者たちを殺害するために、くじで一〇人の男を選び出した。他の者たち
は地上に身を横たえ、おのおのその妻や子供たちの傍らで彼らを腕に抱き、くじでこの悲しい務
めを果たす男たちの一撃のまえに頸をさしのべたのである。そしてこれら一〇人が、恐れること
もなく他の者たちを殺害し終えたとき、彼ら自身も同じ仕方でくじをひき、当たった者がまず他
の九人を殺害してから、最後に自決することにしたのであった。⋯⋯そして、最後に九人は執行
者のまえに頸をさしのべたのである。
最後に残った者は、ほかの者どもの
死体を見わたした。彼らがすべて死に
火を放ち、手に力をこめて剣をみずか
はてたことを見届けると、彼は宮殿に
らにさし貫いた。そしてみずからの近
親の傍らに死に倒れたのである。これ
らの人びとは、その中の一人といえど
も、生き永らえてローマ人に隷属する
ことのないようにとの意図をもって死
んだのであった。
ことそ
AN
120 オストラコン サダで発掘された
オストラコン
243
平和の代償
名安情能
以上のヨセフスの叙述以上に、彼らの悲壮な最期を、
息づまるような迫真感で描いているものはない。最後
の一〇人から一人を決定する時に鏡に使ったと思われ
るオストラコン(陶片)が、発撮で発見された(网80)。
悲惨な最期の一部始終は、地下の洞穴にかくれていて
救い出された二人の老女性と、五人の子供によってロ
―マ人に語られた。死んだ者は、女子供を含めて九六
〇人であった。発掘品の精査の結果、ここにはクムラ
ン教団と同系統のエッセネ派も参加していたことが推
定されている。
ユダヤ戦争ののち、六十年間、エルサレ
平和の拒否
ムは廃墟のまま放置された。カルガクス
がブリタニアで叫んだように、ローマ人は、「人の住まぬ荒涼たる世界を作り上げたとき、それ
をごまかして,平和"と名づける」、その慣行がエルサレムで実行されたのである。
やがてハドリアーヌス帝(在位一一七〜一三八年)がここをローマ植民市として再建しようとし
たとき、バル=コへバを首領とする反乱が起こった。第二ュダヤ戦争とよばれる、一三二年から
一五年まで戦われたこの抵抗戦争は、第一ユダヤ戦争よりさらに激甚で絶望的な抵抗であった。
121 嘆きの壁 エルサレム東南地区,モリア
山の近くに残る壁。ヘロデ王が再建した神殿の
外壁の一部といわれる。ユダヤ人は年に一日,
神殿の破壊をなげき泣きながら祈る
244
7
主滅して以後、ユダヤ人の反抗はふたたび起こることはた
以後、もとのエルサレム、新しく建てられたローマの植民市アエリア=カピトリー
ュダヤ人ははいることを許されなかった。ただ年に一度、第一ユダヤ戦争のエルサレム陥落の記
念日にだけ、旧神殿の壁にすがって嘆きの祈りをすることが許された。これがいまに残る「嘆き
の壁」である。こうしてユダヤ人は、祖国を失った流浪の民となる。
ュダヤの反乱は、ローマの平和を拒否しようとした英雄たちの正義の戦いであった。ローマの
平和の隷従と屈辱をいさぎよしとしない多くの諸民族の存在を示す、顕著な実例であった。平和
の隷従と屈辱をいさぎよしとしないで、自由と独立のために死を賭して抵抗戦にたちあがるか、
あるいは、隷従と屈辱に耐えつつ、ローマの平和の傘の下で、平和の恵みのおこぽれを頂戴する
の二者択一のまえに、地中海世界の人びとはつねにたたされていたの
「死のほかわれわれを分かつものはなにもない」といって、この申し出をことわった。夫は妻トゥリアのためにたてた慕碑の末尾に、同じようにその婦徳をたたえた。ムルディアの慕碑になかった好徳としては、「迷信ではない信心」「装身具をほしがらなかったこと」「控え目な服装」がたたえられている。さらに、
「お前の夫や家族員に対する献身について、どうして述べるべきだろうか。お前は私の母をお前の両親と同様に尊敬し、私の母にお前の両親と同じ平安があるように心を砕いた」、と刻んだ。
生前の夫婦愛を想起し、大が妻を、姿が夫を嘆いている幾多の慕碑銘がある。
「そこを行く見知らぬ人よ。私の言うことは短い。終りまで読んでくれたまえ。これは美しい女
性の美しくない慕石だ。彼女の名はクラウディア。彼女は夫をその心を傾けて愛した。二人の息
子を生み、一人を地上に残し、一人を地下にかえした。可愛いらしい話し方をし、優雅な歩き方
をした。家事をよく整え、機織りをした。これで終り。立ち去ってくれたまえ」
「彼女は自分の息子たちを自分の乳房で育てた。⋯⋯二十四歳三ヵ月十六
私は夫を待っています
日で死去」
「ここにブリムスの婆ウルビルラの骨が横たわる。私にとって私の命以上のもの。二十三歳で永眠」
「⋯⋯私は彼女と十八年間、喧嘩一つせずに暮した。彼女への思慕の念やみがたく、このあと二
度と妻をもたないことを私は誓った」
「私の死後、私の夫にしてもらおうと望んでいたことを、不幸な私は、いま、夫の灰に対して行
「われわれ夫婦は、健やかであったあいだ、六十年間、仲よく暮した。死が近づいてきたとき、
われわれは生きているあいだに一つの墓を作ろうと決心した」
先に死んだ妻の名のところに、
「私は夫を待っています」
とだけ刻まれたものもある。
ここに見るものは、名もない庶民たちが愛する夫や妻や子供や母の生前を思って、その墓に刻
んだ拙ない文章の、ほんの一例にすぎない。彼らの現実の生活がどのようなものであったのか、
ここに読まれるような平和な愛の光にだけ
包まれていたのか、この冷たい石の短い文章は黙して
語らない。
けれども、これらの、先に旅
しあわせの光景
立っていった愛する者への餞
けの言葉、彼らが人生を終わるにあたって語り
たいと思った最後の言葉は、これらの庶民が、
平素心に描いていたしあわせの光景はどのよう
なものだったかを物語っているのである。
なった」
182 夫婦愛 性の頽廃も快
楽の追求もないつつましい生
活のなかから生まれた夫婦の
愛情ももうひとつのローマの
姿であった