London Brompton Cemetery |
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映画「Hereafter」のワンシーン |
映画「Hereafter」のワンシーン |
北海道内で各地の墓地を見物してきてきたけれども、この帯広の「つつじが丘霊園」は最も素晴らしい墓地である。
広く(広大で)、敷地は緑に溢れ、しかもその緑はしっかりと手入れされていて、静謐が支配している。背の高い樹木の列が区画を幾つにも分けていて、締まり無く広がっているような印象を逃れている。墓地の小宇宙が視界を遮る並木の向こうに、そしてまたその向こうにと繭のように優しく包まれ区画されて収まっている。
ほんの僅かな小さい観音像や地蔵像以外には彫刻の類は無く、「個性的な墓石」も私が見た限りは一つとして無かった。どれも同じような「羊羹墓石」が立っている。雰囲気は・環境は素晴らしいけれども、石を鑑賞するような楽しみは得られない。ただ、それを補って余りある素晴らしい墓地であることは間違いない。
キリスト教徒の墓石も幾つもあり、その中の一つには
《 また逢う日まで
Till we meet again
基督信徒之墓 》
と刻まれていた。
しかし、と私は思う。二度と再び逢うことはできないだろう。魂も天国も神も存在しない以上、人は死ぬことによって消滅する。マルクス・アウレリウスが2000年前に述べたように、「人は死ねばその肉体は宇宙の中に溶けてゆき、その記憶は永遠の中に溶けてゆく」。
美しいこの帯広の墓地を歩きながら、私は3年前にロンドンのブロンプトン墓地を歩いたことを思い出した。
この墓地の中には、重い石板の4つの縁にこんな言葉を刻み込んだものがあった。(写真)
《 I LOOK FOR RESURRECTION OF THE DEAD AND THE LIFE OF THE WORLD TO COME. AMEN. 》
石板の表面に刻まれた文字もまだ読むことができる。数人の人々の遺体が埋められている。そしてRESURRECTION(復活)の日に、彼らは神がこの石版を動かして、中から蘇ることを夢見ている・期待している(LOOK FOR)。もちろん、墓場から蘇り立ち上がるときには、神が与え賜う新しい美しい肉体を得て。
しかし、残念ながら、そうしたことはないだろう。
最近になって、レイチェル・カーソンの訳本を読んだ。以下に気になったところを引用する。
Rachel Carson The Sense of Wonder(1956)
上遠恵子訳・新潮社(1996)
(P23) 子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。
この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。
(P50〜)人間を超えた存在を認識し、おそれ、驚嘆する感性をはぐくみ強めていくことには、どのような意義があるのでしょうか。自然界を探検することは、貴重な子ども時代をすごす愉快で楽しい方法のひとつにすぎないのでしょうか。それとも、もっと深いなにかがあるのでしょうか。
わたしはそのなかに、永続的で意義深いなにかがあると信じています。地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通ずる小道を見つけだすことができると信じます。
地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は、生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができるでしょう。
鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固い蕾のなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘がかくされています。自然がくりかえすリフレイン――夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさーーのなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。
わたしは、スウェーデンのすぐれた海洋学者であるオットー・ペテルソンのことをよく思い出します。彼は九十三歳で世を去りましたが、最期まで彼のはつらつとした精神力は失われませんでした。
彼の息子もまた世界的に名の知られた海洋学者ですが、最近出版された著作のなかで、彼の父親が、自分のまわりの世界でなにか新しい発見や経験をするたびに、それをいかに楽しんでいたかを述べています。
「父は、どうしようもないロマンチストでした。生命と宇宙の神秘をかぎりなく愛していました」
オットー・ペテルソンは、地球上の景色をもうそんなに長くは楽しめないと悟ったとき、息子にこう語りました。
「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」と。
(引用終わり)