新美の巨人たち 2020年1月4日放送
以下は、ウィキより引用。
こうしてニューグランドは、横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。1930年代は、ルーフガーデンで大桟橋など横浜港を見ながら食事ができた。ロビーの大階段の先には川島織物製のタペストリーがかかり、高さ6メートルのマホガニーの柱は現在も残る。洋風の豪華な造りである一方で和風の意匠も取り入れられ、メインダイニングでは御簾の奥で雅楽が奏された[2]。
初代会長には先の井坂孝が就任し、井坂は東洋汽船出身であったことから、ホテルの主要業務であるサービス・宿泊・飲食に関する知識に明るく、さらに当時東洋汽船サンフランシスコ支店長であった土井慶吉を自分の補佐として呼んだ。そして土井は、総支配人としてパリからアルフォンゾ・デュナンを招聘。新生ホテルの目玉として「最新式設備とフレンチ・スタイルの料理」をキャッチフレーズにレストランには特に力を注ぎ、総料理長には、先のアルフォンゾ・デュナンの紹介で、パリのホテルからスイス人コックのサリー・ワイルを据え、さらに元帝国ホテル第4代総料理長の内海藤太郎をその補佐につけた。
ニューグランドの厨房からは、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理が生まれた[3]。また、ホテルオークラ初代総料理長となる小野正吉や、プリンスホテルグループ総料理長となる木沢武雄、霞ヶ関飯野ビル「キャッスル」の荒田勇作や銀座5丁目「コックドール」の林久次、ロイヤル中洲本店の前川卯一[4]など数々の名店の料理長を輩出し、日本の食文化に多大な影響を与えた。
サリー・ワイルについて、以下はウィキより引用。
ワイルは1927年10月29日、ニューグランドの開業一ヵ月ほど前に横浜港より入国し、調理場の中だけでなくホテルの施設の面からも影響を及ぼしている。それ以前の日本のホテルのレストランはヨーロッパの貴族文化に倣ったテーブルマナーやドレスコードに厳しく大仰なもので、気軽に楽しむといったものではなかった。提供される料理もコースとして予め定められたものが提供されるばかりであったことから、ダイニングと別にコートを身に着けたまま、あるいはネクタイを着用することなく、お酒を楽しみながら食事をとれるようなグリルを設置し、一品料理から注文を受けた。 「どんなにいい料理を作っても、サービスの態度一つで美味しくも不味くもなる」と考え、時にはコックコートのまま自ら客席に赴き、接客し、注文や客の要望を受けるなど、ゲストが楽しめる空間を演出した。今日ではよく見られる、ローストビーフをシェフが客席を回って手切りしてサーブするスタイルは、ワイルが初めて行った。 当時のグリルのメニューには「料理長はメニュー以外のどんな料理の注文にも応じます」と書かれていたとされ、ある来客が「体調が優れないからのど越しの良いもの」をリクエストしたところ、ワイルが即興で創作したものがベースとなってドリアが誕生した[9]。ワイルが作った当時のドリアは今日でもニューグランドの名物料理となっている。
さらにワイルは、自分の技術を秘匿し、一つのセクションだけでチーフとなっていく日本の厨房のしきたりを廃し、全ての調理技術を公開し、一人のコックが全てのセクションを覚えるローテーション制を導入したために、多くの優れたコックが育った。 また、当時の日本で西洋料理を理解するには料理の原書を読む必要があり、それには語学が大切だと言い、コック達に語学学校に通うことを奨励したので、ニューグランドでは見習いコックであっても語学学校に通う日は厨房の仕込みや掃除も免除された。 これは、丁稚奉公的なしきたりの強い当時のレストランの厨房では考えられないほど革新的なことだった。 (ワイル自身は、ドイツ語、フランス語を得意とし、英語と日本語も多少話すことができた)
要潤は案内人として素晴らしいのだけれども、この市川実日子という女性のナレーションは(NHKのドキュメント72時間でもそうだけど)息苦しく聞き苦しく聞いていていつも不快になる。
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ということで、去年の一月にこのテレビ番組を見て、そのうちに一度行ってみたいと思っていたホテルニューグランドに、今年の一月になって行ってきた。ちょうど横浜の親戚に大事な要件があり、武漢ウイルス禍の中でも出掛ける必要ができたのである。
二泊三日で、二泊ともホテルニューグランドに泊まり、夕食は港未来や中華街で食べた。このホテルは横浜中華街の隣にあると言っても過言ではないくらいの近さにある。
先日函館のホテルパコに宿泊したのだけれども、ビジネスホテルにしては十分に洗練されたホテルだった。ロビーの造りも凝っていたのだけれども、ロビーに飾られている花・植物は、どれも造花だった、プラスチックや塩化ビニールでできたものだった。
ニューグランドのフロントロビーの中央には、大きな、というより巨大な生花が飾られていた。人の殆どいない朝早くにそこに行ってみると、痩せた神経質そうな(芸術家的な)30歳前後の男性が、弱った花を抜いて、あれこれ全体像を確かめて、新しい花を挿していた。「花球体」(と私が勝手に名付けたのだが)を維持している花屋さんなのだろう、假屋崎省吾の花なんかよりもよっぽど見るに耐える生花である。(假屋崎の生花を大谷石の採掘場で見たことがあるけれども、どれも虚仮威しの騒がしい生花だった)
「たん熊」の朝食はごく平凡でつまらないものだったけれども、その翌日に食べた「ル・ノルマンディ」で食べた朝食は美味しかった。
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