昨日は、映画・ノマドランドを札幌ファクトリーの映画館で観てきた。映画館で観る映画なんて、もう2年ぶりくらいになると思う。シネコンの内部も大きく様変わりしていて、チケットは機械で購入するのが主流。もちろん今まで通りに販売ブースもあったけれども、入り口から遠くに移動し、受付も二箇所くらいに減っている。画面タッチの機械によるチケット購入は簡単で、シニア割引の1200円の券を買う。画面で席も指定できるようになっている。
午後1時半からの映画だったけれども、座席の4分の1くらいは埋まっていた。どこも隣の席を空けているので、それで4分の1ということは規定座席の半分は埋まっているということになる。武漢ウイルス禍の映画館としては驚くほど混んでいる、ことになる。平日の午後1時台でこの混雑だから、週末は規定上の満席になっていたのではないだろうか。それくらい人気のある、注目を集めている映画だということになる。
映画は、素晴らしいにヒトコトに尽きるのだが、いろいろと考えさせられた。
原作は去年か一昨年には買っていた。しかし、読んでいなかった。この本を知ったのは、経済関係の記事を読んでいて、漂流する高齢貧困労働者問題、という流れの中で知った本だった。だから、経済的弱者の困窮ぶりを描いて資本主義社会の不正を問う、といった「正統派」ジャーナリズム臭プンプンたるものだと思っていた。
実際、本の著者であるBruderは、本が出版されたその年にプロデューサーとなって「本を映画化した」ものを作っている。しかし、その映画は全く(?)評価されていない。恐らく、「社会正義の説教調映画」だったのだろう。
ところが、この本の映画化権をマクドーマンドが買い取り、Chloe Zhao(中国人女性監督)が脚本を書き、音楽をLudovico Einaudiが担当して映像化すると、あら不思議、そこにはHuman Dramaとでも呼ぶしかないような、魅力的な作品が出来上がっていたのである。
Socioeconomic Dramaではなく、Death-waiting-human Drama
なるほど、ビート畠やアマゾン物流センター、あるいはピザ屋での「労働シーン」は出てくる。しかしそれは「背景説明」に過ぎない。貧困と労働と漂流、がメインではない。
たとえvandwellerではなくても、人の人生は「一種の漂流」であるし、流れ着く先は「死」以外には無い。誰もがこの人生を漂流して、やがては死と名付けられた消滅へと向かう。その「事実」を、vandweller(もっと適切に言えば、vantraveller)は教えてくれる。
マクドーマンドが、アメリカバイソンを見つめながら車を運転し、渓流で全裸になって水の中に浮かんでいて、メタセコイアの驚異的な森の中を歩き、砂漠の果てに続く不毛の山脈に向かうかのようにヴァンを運転し、岩場の海辺で両手を広げるとき(フリードリヒの絵画『海辺の僧』を連想した)、そしてそれらの全てで彼女は無言であり、Einaudiのピアノの魔法のような音が流れている。静かに時は流れ、自然世界は美しく強く荒々しい。
ストラザーンとマクドーマンドの恋愛めいたエピソードなど、どうでもいいように思えてくる。マクドーマンドすら、単なる狂言回しのように見えてくることもある。それは、この映画の本当の主人公は、Linda May, Swankie, そしてBob Wellsではないかと思えるからだ。昨日、映画を観た時にはこの3人が、実名で登場している本当のvantravellerで、俳優なんかではないことを知らなかった。だから、まるで途中から私がドキュメンタリーの中に放り込まれたような不思議な感覚に囚われたのも無理はなかったのである。
あるサイトでは、ノマドランドというこの映画は、フィクションとドキュメンタリーの境をあっさりといとも簡単に超えてしまっている、と高く評価していた。まったくその通りだと思う。
現代ではvanに乗って旅をするのだろう。
しかし、昔は歩いて旅をした。ノマドは貧困高齢漂流民、というよりも、私には西行芭蕉と同じように、旅に生き、自由を知り、やがて来る死を受け入れ、そして何よりも自然世界の美しさに身を委ねている、人生を本当に生きている、人々に見える。
See you again down the road.
本当に、これは不思議な魅力に満ちたroad movieなのだと思う。
Ludovico EinaudiのCDを2枚、今朝アマゾンで注文した。