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2022年4月30日土曜日

とても残念な地下バルCheers




  この、新札幌駅近くにあるビル地下一階のイタリア料理店に行くのは2回目だった。

 昼のランチで味わったトマトのスープはとても美味しかったし、2回目の夕食で食べた料理も(メインの肉料理の写真を撮るのは忘れていた)とても美味しかった。
 しかし、もう二度と行くことはないだろう。
 店主らしき30代半ばの男性と、20代後半らしき若い男性の二人で、大勢の客をさばいていた。働きぶりも好感が持てたし、サービスが悪かったわけでもない。繰り返すけれども、料理には問題はない。
 しかし、私にはどうしても我慢できない点が一つあった。
 それは、ノンアルコールビールが、不味い不味い不味い、サントリーのオールフリーしかなかったことである。この店主・シェフは何を考えているのだろう? 美味しい料理にどうして不味いサントリーのノンアルしかないのだろう?
 これは大袈裟に言えば、「哲学」の問題である。自分の料理をこんな不味いものと一緒に出すというその「考え方」が私には理解できない。何も考えていない、としか思えない。
 サントリーの不味いノンアルしか置いていないようなダラシない店には、足を運ぶつもりはないので、もう二度と行くつもりはない。
 しかし、ノンアルを飲まないという人には、きっと良い店なのだと思う。

 今年の夏に行く予定の、東北地方の某フレンチレストランには(グーグルマップの写真を見ると)、ちゃんとまともなノンアルの一つであるキリンの「零ICHI」を置いてある。アサヒビールやサッポロビールも、まともなノンアルを出しているというのに、このサントリーのものだけは我慢できないほど不味い。

東北地方のある街のフランス料理店のメニュー



CGC関連のスーパーで売っている「ゼロクリア」という
ノンアルコールビールはベトナムで作っている
フランス産のアロマホップを使っているというが、とても不味い

2022年4月29日金曜日

苫小牧 モルト・ボーノ





 できるだけ「イタリアもの」で統一したいという店主の気持ちは理解できる。
 だから、ノンアルコールビールは、日本のものではなく、ビッラ・モレッティのものを置くのも理解できる。ちなみにこのイタリアのビールメーカーは、今はハイネケンの子会社となっている。しかし、ビールは、ノンアルを含めて、移動による振動と時間の経過による変質によって味が急激に落ちるものである。きっとイタリアで飲めば美味しいのであろうこのビッラ・モレッティのノンアルも、日本で飲むときには味はすっかり落ちてしまっていて、正直、不味い。ギネスを日本で飲めば不味く、アイルランドやイギリスで飲めば美味しいのと同じことである。
 プッタネスカは美味しかったし、二度目のフランボワーズのソルベもとても美味しかった。
 近日中に、ランチのコース料理をここに食べに行く予定で予約を取った。

 最近照明器具を変えたようで、お洒落になっていた。店の人に良くなったね、と言うと、
「でも誇りが目立って、掃除するのが大変なんですよ」
 と応えてくれた。掃除は大変なのだろうけれども、以前の古めかしいものよりは美しい。



Google mapが英語表示から変わらない






 


いろいろやってみたけど、英語表示から変わらない。
きっと同じように迷惑を受けている人は多いと思う。
前回の、基本ソフトのアップデート以降、こうなってしまった。
恐らくは、他にも多くのiPhoneユーザーが迷惑を被っていることだろうし、次の更新時には何らかの改善策をしてくれるものと期待して待つしかない。


PS 5月3日の夕方、グーグルマップをいじっていると、いつの間にか「英語表記」が消えていることに気づく。つまりは、「こちら側の問題」ではなくて、グーグル側がマップの機能を誤ったままにしていて、それをこっそりと訂正した、ということなのだろう。とにもかくにも、読みにくい、意味の通じないローマ字での表記から解放されて嬉しい。






2022年4月20日水曜日

上砂川町 ラーメンだるまや

 




 上砂川町の「ラーメンだるまや」。
 最近、富良野づいていて、高速経由で行くときは上砂川町のこのラーメン屋に寄っている。街中をエゾシカが何頭も(何十頭も?)闊歩している田舎町で、そこにある昔からのラーメン屋。以前は親父さんがやっていたらしいが(恐らく他界してしまって)、今は女将さんと息子が二人でやっている。
 この女将さんが、客の前でも平気で息子を叱りつける。とはいっても、それが「常態」のようで、剣呑な雰囲気はない。そして「ヒグマのように」大きくて太ったこの息子は、母親に反抗するでもなく、かといって気が小さいようでもなく、ごく自然に母親のガミガミを受け流している。不思議で小さなラーメン屋である。
 クチコミでは、先代のラーメンの方が美味しくて今のは味が落ちた、とあるけれども、その「今の」でも十分に美味しい。店と家はドア一枚で繋がっていて、そのドアが空いていると、どうやら居間か寝室らしいのだけれども乱雑な部屋を見ることができる。こうして、何十年にも渡って、恐らく炭鉱で活気があった時代から続いている、昭和の忘れ形見のような不思議なラーメン屋が今も上砂川町にはある。
 常連たちの話に耳を傾けながら(というか勝手に盗み聞きしながら)、美味しいラーメンを食べるのも一興である。


芦別市 レストランポロ1986



 芦別市にある「レストランポロ1986」。

 以前から気になっていたこのレストランに、先日、富良野に行く途中に入った。グーグルマップのクチコミにあるように、オーナー夫人(だと思う)の接客は素晴らしく、店内は洒落ていて、地元のおばさんたちが大勢入っていて賑やか、料理も美味しい‥‥と、いいこと尽くめだったのだが、最後になってからそれがひっくり返った、個人的に。
 食後のコーヒーが出てきたのだけれども、これが間違いなくインスタントで、恐らくは「Nespresso」。
 不味い。
 個人的感想だけれども、美味しい食事をした締めに、美味しいコーヒーで終わるのならともかく、この不味いインスタントコーヒーは料理の全てを最後に台無しにしてしまっている。
 店も料理も接客も素晴らしいのだけれども、コーヒーがこれでは、残念ならが再び私がこの店に行くことはないだろう。
 もちろん、Nespressoを美味しいという人が大勢いるのは知っているけれども、残された短い私の人生の中で、何が悲しくてこんなに不味いコーヒーを飲まされなくてはならないのだろうか、と思う。ここのシェフ(恐らくはこの夫人の旦那さん)は、このインスタントコーヒーが美味しいと本当に思っているのだろうか、それとも、時間と人手の節約のためにこんなヒドイものを出す決断をしたのだろうか。
 まぁ、私にはもうどうでもいいことではあるけれども。

 私には理解できないし、理解しようとも思わない。
 パリで何を学んだというのだろうか、このシェフは。岸田周三。https://www.gqjapan.jp/life/news/20171219/nespresso-chef-kishida/page/6



2022年4月13日水曜日

江別市のカレー店 スーリヤ



 江別のカレー料理店・スーリヤ

 残念なことは、ここのアルコール類は全て「サントリー」のものなのである。不味い不味いAII-Freeしか、ここのノンアルコールビールにはない。その他の焼酎やワイン、ウイスキー、バーボンなどなど全てサントリーのダメ商品。
 このアルコールメニューは、「ベイビーフェイスプラネット」のものと同じである。そういえば、店内の飾り付け・スタイルもベイビーフェイスプラネットと同じである。もっとも、ベイビーフェイスプラネット(札幌平岡店)は接客も料理も最低だけれども、ここスーリヤの接客と料理は少しはマトモである。
 いずれにしろ、ノンアルコールビールに不味いサントリーのものしか置いていない店は、二度とは行かない。




2022年4月9日土曜日

クロワッサン症候群 神田沙也加

仲良く札幌の街を歩く母娘

ホテルモントレエーデルホフ札幌の中の結婚式のための教会



結婚式を挙げた夫婦の名前を刻んだ金のパネル


松原惇子 「クロワッサン症候群」(1988)以下はその文庫本よりの引用

P234〜 ひと昔前までは、女優は子供を産むことを隠していたものだった。それが、今は、子供を産んだことがステイタスになっている。子供を産んでいかにも幸福そうな女優の姿をみていれば、つい、私も、と心が動かされてもしかたがないことである。
 マタニティ雑誌の出現により、妊娠出産は今や女の子のあこがれになっている。もちろん雑誌だけの影響ではないが、マタニティ雑誌の創刊ラッシュがそのことを裏付けていることは確
かだ。
 今や女性誌の主役は、妊娠出産女優たちである。現実に、最近の二十代の女性の結婚願望は強い。ある社会学の先生にいわせると、今の若い人は、私たち旧人類とはちがい、結婚を人生の一つのパーツとして考え、冷静な目で結婚をみているという。単に保守的になったのとは意味あいがちがう、ということだ。
 つまり、今の若い人たちは、わかりやすくいえば松田聖子型の結婚を望んでいるらしい。一生食いっぱぐれのない男と結婚し、子供もきちんと産んで、子供にかわいい格好をさせて、仕事もやらせてもらう。シングルの生活をそのままひきずることのできる結婚生活を今の女の子たちは望んでいるようだ。聖子ママをみていればよくわかる。彼女は子供は産んでも、母親ではない。
 現代の若い女性たちの生き方モデルは、妊娠出産女優。もはや、キャリアでがんばろうというのは時代遅れなのである。もちろん、中にはキャリア志向の若い人もいるが、全面に自分の生き方をだすと友達に嫌われるので、小さくなっている。すなわち若い人たちの間でもシングルキャリアウーマンはいまやマイナーなのである。
 一九八〇年から八八年にかけて、女性誌の主役はガラリと変ってしまった。桐島洋子から、いつのまにか松田聖子、アグネスチャンにバトンは渡されていた。
 働く女性、自立した女性の姿は、各女性誌から見事に姿を消し、妊娠出産女優が闊歩している。もう、どこにも「女の生き方」を問う女性誌はなくなってしまったのである。

P236〜〔1988年2月から5月の「クロワッサン」目次を紹介してから〕
 ずいぶん変わったっものである。どこのページを広げてみても、女の生き方を問う記事はない。あれだけ、女たちを騒がせ動揺させたのに、もう、キャリアウーマンを応援する記事はどこにもない。
 結婚しない生き方?  それ何のことだっけ?
 最近の「クロワッサン」は、お料理、美容と健康などのあたりさわりのない記事ばかりである。
「クロワッサン」から、いつの間にか生き方記事が消えてなくなったように、クロワッサン御用達文化人の顔ぶれも、すっかり変ってしまった。
 桐島洋子、犬養智子、澤地久枝さんなどの結婚失敗組、筋金入りシングルキャリアウーマンは姿を消し、その代りに、既婚で子持ち、仕事もやっていて、それでいてオシャレ、一言でいえば、聖子ママのお姉さん版の有名人たちが顔をつらねている。
 イギリス人の夫を持ち、三人の美しいお嬢さんに恵まれ、夏はカナダに購入した島に一家ででかけるオシャレで優雅な作家の森瑤子さん。
 作曲家の加藤和彦氏と結婚し、グルメでオシャレ、文字通りステキなDINKS(double income no kids=子供のいない共稼ぎ夫婦)を満喫している作詩家の安井かずみさん。
 お料理上手な和田誠さん家の妻、平野レミさん。塩田丸男氏の妻のミチルさんも、お料理のページには必ず登場する。
 いつ本業の医者の仕事をしているのかと心配になるほど登場するファッショナブルな村崎芙蓉子さん。


▲:何かの本を読んでいて(何かは忘れた)、「クロワッサン症候群」という言葉を見つけたとき、そういえばその本を読んでいないことに気づいた。文庫本は買っておいたはずだけれども、自分の蔵書の海(荒れ狂う海)からは発見できそうもないので、図書館から借りて読んだ。
 ずいぶん考えなしに(?)文章を書く女性だなと呆れた。特に、インタビューを受けてくれた女性に対する辛辣な、というよりも、ただただ「無神経な」感想を書き連ねていることに驚いた。続編を読むと、この松原惇子という作家は、インタビューを受けてくれた女性たちから怒鳴り込まれたり、あやうく訴訟沙汰にまでなったのだということを(これも無神経に)書いていたのだけれども、当然だろうなぁと思われた。
 松田聖子のことに言及した文章が引っかかった。
「彼女は子供を産んでも母親ではない」

 その子供である「神田沙也加」が死んだ、おそらく自殺したのは去年、札幌でのことである。以下はウィキよりの引用。

2021年12月18日、札幌市内の宿泊先ホテルの14階屋外にあるスペースに倒れているところを発見され、意識不明の状態で市内の病院に搬送されたが、同日21時40分に死亡が確認された[2][56][57]。35歳没。神田は朝夏まなととのダブル主演ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の正午公演に出演するために同ホテル最上階の22階スイートルームに滞在していたとされ[58]、当日の11時頃になっても神田と連絡が取れなかった[注 2]ため[60]、関係者から110番通報を受けた北海道警札幌中央署がホテルを捜索したところ、約2時間後に14階屋外スペースで靴を履かず雪に埋もれ[61]体から血が流れて倒れていた状態で発見され、既に心肺停止状態だったという[2][62][63]。北海道警は死因について高所から転落したことによる外傷性ショックと発表した[63][64]。所属事務所は転落の原因については故人の名誉と周囲への影響を踏まえて公表を控えるとした[65]。(引用終わり)

 クロワッサン症候群とは関係ないけれども、神田沙也加はどんな、幼年時代、少女時代を送ったのだろうかと、ふと思った。
 いろいろなネット記事を読むと、彼女の精神が決して安らぎのない不安定なものだったことが容易に推測することができる。恋人の暴言云々はさておき、神田沙也加の精神はもとから不安定だった。それが転落死・おそらく自殺、と関係なかったとは考えられない。
 彼女が転落した夜の札幌は、猛吹雪だった。22階の窓からは、天に突き刺さったように飛び出ているその窓からは、荒れ吹雪く雪以外は何も見えなかっただろう。
 不思議なことに、北海道警察は「ホテルに過失はない」と、はやばやと発表していた。
 ホテル側に過失が無ければ、また同じように窓から転落する人が出てもおかしくはない。

 実は、神田沙也加の事件の半年前、去年の6月に私はこのホテルの22階に泊まっている。もっとも、スイートルームのある部屋は別区画になっていて、私が泊まった比較的安い部屋のキーではその区画に入ることはできない。ただ、高さは同じである。あんなに高い場所にある部屋の窓が開き、しかも大人が通り抜けることができるようになっていたということが、信じられ無い。私が泊まった安い部屋の窓は、幸いにも、1センチも開けることはできなかったように記憶している。




2022年4月4日月曜日

北海道墓地散歩





 

山梨県北杜市という狂った世界

たたく・蹴る・「罰金120万円」払わせる…パワハラ市職員を停職処分
2022/04/02 21:52 読売新聞
 山梨県北杜市は1日、30歳代の男性職員が後輩の職員にパワハラ行為をした上、金銭を要求して計約120万円を受け取ったとして、停職6か月の懲戒処分にしたと発表した。
 市によると、男性職員は高根総合支所に勤務していた昨年10月~今年2月、仕事でミスをした同じ担当の20歳代の男性職員に対し、たたく、蹴るなどの暴力を加え、「罰金」と称して8回程度にわたり金銭を要求。後輩職員は計約120万円を渡していたという。
 暴力は昨年5月から始まり、支所内の倉庫で「聞く前に考えろ」などと厳しく叱りつけながら行われていた。金銭は3万~20万円ずつ要求していた。後輩職員が今年2月、市に被害を訴えて発覚した。現在、仕事を休んでおり、警察にも相談しているという。
 処分された職員は「(後輩職員を)指導しても失敗が続き、ストレスを感じていた」と説明している。
 市は監督責任があったとして、当時の上司2人も戒告の懲戒処分とした。

▲:北杜市の「通常運転」なのだけれども、こんなことをしでかした職員が「停職6か月」でまた市役所に復帰できるというところが、いかにもこの狂った世界に似つかわしい。



悪魔の朝日新聞と寺島実郎 悪魔のロシア人

ロシア批判のはずが日本批判の不思議 イスラム思想研究者・飯山陽
2022/4/3 10:00 産経新聞
 国連憲章は「武力による威嚇又は武力の行使」によって国の領土保全や政治的独立を脅かすことを禁じる。その国連の安保理常任理事国であるロシアがウクライナに軍事侵攻した。
 国家には永続的な政策や地政学的方向性があるわけではないし、常に想定通りルールに従って動くわけでもない。わずか短期間のうちに変わるはずのなかったものが変わり、不可能が可能になることを私たちは確かに目撃した。今私たちが向き合うべきは、国際社会のルールが破壊され、これまでの世界の前提が維持されないことが明らかになった、という深淵(しんえん)なる事実である。
 ところが朝日新聞は違う。3月3日付朝刊の天声人語では、国連総会で多くの国から非難され孤立したロシアについて「戦前の満州事変のあと、日本の立場もかくのごときものだったか」と戦前の日本になぞらえ、「満州事変から泥沼の日中戦争へと、破滅の道を進んだのが日本の歴史」と批判した。
 3月2日付朝刊には日本総合研究所会長で多摩大学学長でもある寺島実郎氏の「日本がプーチン氏を増長させた面もあることを指摘しておきます」うんぬんというインタビューを掲載した。いわく、安倍晋三元首相が2014(平成26)年のロシア・ソチ五輪開会式に参加したことや平成28年にプーチン大統領を山口県に招いたことが「(ロシアが)むき出しの力を行使することを結果として後押し」したらしい。
 自由主義的世界秩序を旨とする民主主義国家として、日本が今批判すべきはロシアであるはずだ。ロシアの東の隣国は日本である。今日のウクライナは明日の日本という危機感は、国防を考える前提として必要不可欠であろう。
 ところが朝日は論点をすり替え、この問題を日本批判に転じようとする。ウクライナでは多くの無辜(むこ)の一般人がロシア軍に殺害されているというのに、それを「利用」して自らのイデオロギーがさも正しいかのように主張するのは人道にもとる行為だ。
 ロシアに向けられるべき批判の数%でもいいから日本に向けさせようなどという策略は品性下劣極まりない。反日イデオロギーは日本人の目から事実を隠すための煙幕だ。日本人の意識がかような煙幕に覆われたままでは日本の領土も主権も危うい。なにしろロシアは日本の隣国なのだから。
【プロフィル】飯山陽
いいやま・あかり 昭和51年、東京都生まれ。イスラム思想研究者。上智大文学部卒、東大大学院博士課程単位取得退学。博士(文学)。著書に『エジプトの空の下』など。




ウクライナ奪還の街で「280人埋葬、全員が後頭部撃たれた」…ロシア軍による戦争犯罪の可能性
2022/04/03 23:14 読売新聞
【ロンドン=深沢亮爾】ウクライナのハンナ・マリャル国防次官は2日、自国への侵攻を続けるロシア軍から、首都キーウ(キエフ)があるキーウ州全域を奪還したと明らかにした。AFP通信などによると、解放されたキーウ近郊ブチャでは、民間人とみられる多数の遺体が確認された。露軍は首都周辺から撤退する一方、東部や南部の制圧を目標として攻撃を強めている。
 マリャル氏は自身のSNSで、キーウ北西に位置するブチャ、イルピン、ホストメリの地名を挙げ、「侵略者から解放した」と表明した。
 人口約4万人のブチャは露軍が猛攻をかけた後、約1か月間、占拠されていた。ブチャの市長はAFPの取材に、「街中に遺体が散乱している。少なくとも約280人を集団墓地に埋葬した。女性や子どもも含まれ、全員が後頭部を撃たれていた」と述べた。
 遺体の多くは、武器を持っていないことを示す白い布を身に着けていたという。現地入りした英BBCも、路上などで約20人の遺体を確認した。後ろ手に縛られた複数の遺体の映像も報じた。
 戦闘員ではない民間人の殺害は、「人道に対する罪」に該当する。露軍の地上部隊が、制圧した地域で戦争犯罪を繰り返していた可能性が浮上した。
 露国防省は3日、公式SNSで、ブチャに関する報道について「偽情報だ」と主張し、関与を否定した。
 露軍部隊がキーウ州から撤退したことに関し、米政策研究機関「戦争研究所」は、「キーウなど主要都市を攻略する当初作戦が失敗し、修正した結果だ」と分析した。
 ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は2日のビデオメッセージで、ロシアが東部のドネツク、ルハンスク(ルガンスク)両州全域と南部の「占拠」を目指していると指摘し、「防衛のため、あらゆ(以下有料記事)







2022年4月1日金曜日

気仙沼 唐桑つなかん

https://nikkan-spa.jp/1817114
3.11から11年。「息をするのもつらかった」“名物女将”の喪失と再生
追っかけ漏れ太郎

東日本大震災で被災した宮城県は気仙沼市唐桑町。そこには全国にファンを持つ“名物女将”菅野一代がいる。もともと夫と二人三脚で牡蠣の養殖業を営んでいた彼女は、震災以降、数々の困難に見舞われながらも民宿を開業。はじけるような笑顔で「おかえり!」と客を迎えている。彼女の強さは一体どこから湧いてくるのか。現地を訪ねた。

「息をするのもつらかった」“海の女”の喪失と再生

’11年3月11日、14時46分。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が起きたそのとき、牡蠣の養殖業を営む菅野一代さんは宮城県気仙沼市唐桑町の鮪立漁港にいた。

地震からおよそ10分後に到達した津波の第一波は、車に飛び乗って難を逃れた。その後、牡蠣小屋が心配になり、元いた漁港に戻った彼女は、誰かが叫ぶ声を聞いた。

「大きいのがくっがら早ぐ逃げろー! 何してんだー!」

海の向こうを見ると山のように大きな津波が押し寄せてくる。一代さんは咄嗟に近くの山を駆け登った。冷たい雪が降る中、高台から見たのは、人々が波にのまれて流される凄絶な光景だった。彼女は当時をこう振り返る。
「現実に何が起きているのか理解できませんでした。なんて言うか、これって地球だよね?みたいな」

笑顔の裏に隠された傷痕
 気仙沼市における最大波は15時14分。広田湾沖で6mを観測した。
 一代さんはその後、山を伝って避難所に辿り着くまでに3時間を要した。夫や娘、義父母ら家族の安否を確認できたのは救いだった。電気も水道も止まった避難所で、地域住民と数少ない布団や座布団を取り合いながら、彼女は思った。

「人ってみんな同じだなって。ホテルを持っているようなお金持ちとか社長さんでも、なす術がないんです。どんな人もみんな一緒になってラップのご飯を分け合って食べた。人って脆くて弱いんです」
 繰り返す余震に震えながら避難所で2か月を過ごした一代さん。そこから見下ろした“火の海”は今でも瞼の裏に焼きついている。
「気仙沼市の鹿折地区ってところの火事がすごくて。船が燃えながら、潮の流れで全部ここに流れてくる。船から漏れ出た石油に引火して海が燃え、そこから黒い煙が空まで続いていました。地震も津波も怖かったけど、真っ赤な火の海はもっと怖かった」
 気仙沼市では9500世帯が被災。1432人が亡くなった。
 未曽有の大震災から11年がたつ。一代さんは今、女将として民宿「唐桑御殿つなかん」を切り盛りしながら、たくさんの客に笑みを振りまいている。でも、笑顔の裏には多くの傷痕が残ったままだ。
津波でほぼ全壊の家を民宿にして再起
 東日本大震災の大津波で、牡蠣の養殖に使っていたイカダや船、小屋はすべて押し流された。’10年のチリ地震で被害を受けたイカダの修復をようやく終え、「明日から頑張ろう」とみんなで乾杯した翌日が3.11だった。入母屋造りの立派な自宅は3階まで海水に浸かり、屋根と柱しか残らなかった。
 それでも一代さんが再起に立ち上がったのは、震災ボランティアとして気仙沼を訪れていた学生たちとの出会いがあったからだ。
「6月頃だったかな。学生ボランティアの一人から『ここで寝泊まりさせてもらえませんか』って声をかけられて、好きに使ってもらうことにしたんです。家は泥まみれだし、取り壊すしかないと諦めていたのですが、そのコたちが入ってくれて家が生き返ったんです」
 息を吹き返したのは、家だけでなく、一代さん自身もそうだった。
「ここで生活する学生たちを見ていたら、彼らがまた戻ってくる拠点をつくりたいなって思ったんです。あと、若いコの前でいつまでも落ち込んでいられない、カッコ悪い姿を見せたくないって、そういう気持ちも芽生えてきた。それからはもう、女将まっしぐら(笑)」

 夫からは「牡蠣の養殖業もちゃんとやる」ことを条件に民宿開業の了承を得た。被災地ファンドで1000万円の資金を集め、津波で流された襖や欄間は学生たちと泥の中から探して拾ってきた。そして元の家と遜色のない民宿つなかんは震災翌年の’12年に完成、10月にオープンした。こうして一代さんは晴れて女将になった。

17年の海難事故で家族を失う
 養殖業と民宿運営。一代さんの二足の草鞋を履いた生活は忙しくも充実していた。なのに“神様”は悪戯に彼女を傷つける。再び悲劇が襲ったのは’17年。海難事故で夫、長女、三女の夫の命が失われた。
「なんで私だけこんな目に、って神様を憎みました。その頃は明るいものを見るのがとにかく嫌で、何かが目に入るたびに夫のことを思い出しちゃうから、暗い部屋でじっとしてました。春のにおいとか秋の夕焼けとか、それすらも悲しくなる。だから引きずられないように、感情のシャッターを閉める癖がついた。いいのか悪いのか」
 それでも一代さんは事故から3か月後に民宿を再開する。それは一代さん流の“荒療治”だった。
「みんなから『何もしなくていい』って言われてたんだけど、息をすることすら辛かった。こんなに苦しいんだったら、民宿を再開してお客さんと向き合ってみようと思ったんです。お客さんには私の事情なんて知らない人もいる。だったら苦しいのは我慢して、来てくれたことに感謝しようって。そういうふうに向き合っているうちに、ちょっとずつ笑えるようになった。最初は嘘でも笑顔でいると、段々と自然に笑顔になれるんです」

「海を恨んでいない」理由
 町をのみ込み、家族を奪った海に対しても、一代さんは「海がかわいそう」と恨んでいない。
「震災のとき、みんなが『この海が!』って憎んでいて海がかわいそうだなと思ったんです。海は人をのみ込みたくてのみ込んだんじゃない。今まで恩恵にあずかってきたのに悪者扱いしてかわいそうでした。でもさすがに、うちの人たちものみ込んだのは……。だから今でも海をまともに見られないんですけど、私は海で生きてきたし、みんなが尊い仕事をしてきたここを離れたくないんです」

 つなかんの目と鼻の先ではまだ防潮堤が建設途中だ。「高すぎて海が見えない」「刑務所みたいだ」など不満の声も少なくない中、一代さんは「防潮堤があってもなくても、いいこともあるし悪いこともある」と中立の立場をとる。
「義父によく言われました。『与えられた運命を愛せよ』って。与えられた中で生きていく術を見つける。これでよかったって思える方向に持っていく。それが大事なんだと思っています。人の一生なんて本当にあっという間だし、どう生きるかは自分次第だから」

たくさんの人々が訪れる人気の宿に
 今やつなかんはたくさんの人々が訪れる人気の宿になった。かつての学生ボランティアや、一代さんの手作り料理を求めてリピートする客も多い。

また、民宿脇にある「サウナトースター」なる車両型サウナ目当ての客も増えている。
 そのサウナは、以前ここに立ち寄った、愛知県名古屋市を中心に名サウナを展開するウェルビーの代表の好意で置かれたものだ。もともと震災後の東北各地を巡りボランティアたちの冷えた体を温めたサウナトースターが、こうして鮪立漁港に停められているのはある意味、運命だったのかもしれない。

それでも、人生は続いていく
 一代さんは目に涙を溜めて、窓の外の海を見ながら、声をしぼる。
「死ぬよりも生きてるほうが辛いし怖いんです。このまま何事もないようにって思いながらみんな生きてるでしょう。平穏な日常が続いてほしいって。でも、時間が薬になるの。私の中には家族が生きていて、『こうしてもいい?』って聞くと『いいよ』って言ってくれる。ここを訪れてくれる人たちもいる。守るべきものがある。なんとかなる。私はなんとかなったよ」
 取材を終えて車を走らせると、気仙沼市内には震災から11年たつ今もあらゆる爪痕が見て取れる。防潮堤の無機質な存在感はあまりにも大きい。
 でも同時に、新たにできた商業施設の数々とその賑わいに確かな芽吹きを感じる。昔は取り戻せないけれど人生は続いていく。一代さんは、生きながら、そのことを伝えているのかもしれない。そう、なんとかなる。



「人生に迷ったら旅館に」底抜けに明るい女将が失い、見つけたもの
震災で生き残った夫や娘ら3人を海難事故で失った。それでも明るい宮城県気仙沼市の旅館の女将が送る、生きづらさを抱える人へのメッセージ。

宮城県気仙沼市にある唐桑町鮪立(しびたち)。この小さな港町に、民宿「唐桑御殿つなかん」があります。震災後、屋根だけ残った自宅で、菅野一代(かんの・いちよ)さん(56)は、復興支援の若いボランティアたちを無償で寝泊まりさせていました。笑顔が魅力の菅野さんですが、「人と会うのは絶対無理。光さえ見るのも嫌だった」という時期がありました。震災で生き残った夫や娘ら3人を、海難事故で失ったのです。絶望の中、菅野さんは、民宿のお客さんに支えられ元気を取り戻しました。今、生きづらさを抱える若者に菅野さんは、こう言います。「自分を心配してくれている人がいることに気づいてほしい。まあ、迷ったら私の旅館に来てください。大丈夫だ、って背中をたたいてあげるから」。

「どうやったら死なずにいられるか」考えた
「自分をなくしたい」と言う思いを持った人は、少なからずいると思います。

私は東日本大震災の津波で家が全壊しました。2017年3月に海難事故で夫、娘、義理の息子の3人を亡くした時は、「自分も一緒に行きたい」と思ったこともあります。でもその一方で「どうやったら死なずにいられるか」とも考えました。

人と会うのは絶対無理。光さえ見るのも嫌だった。じっとしていないと、自分が自分でなくなるくらいだった。できるのは、何かすがれる言葉をインターネットで探すことでした。家に閉じこもって、3カ月間ほどずっと探していました。

こういう時は、宗教的な言葉に引き寄せられますね。なるほどと思った言葉もあります。例えば、「人の一生はお釈迦様の一瞬きと同じ時間」という言葉。それを見て、そんな一瞬だったらちょっとがんばれるかなと、少し落ち着きました。

恨んで生きるのは本当につらい
「亡くなった人の分まで耐えてやれ」という言葉もありました。3人のために何もしてやれないけど、耐えることだったらできるかもしれない。と思って耐えた。

でも、そんな言葉を最後に心に落とし込むのは自分です。心が安らぐ言葉を探すのは自分。「自分教」なんです。答えは自分の中にあるんだよね。

震災後に天寿を全うした夫の父の口癖も、立ち直るきっかけになりました。「自分の運命を愛せよ」という言葉です。

海が憎い、風が憎い、あのときああだったら、だれのせい、あれのせい、と憎んだり、恨んだりして生きるのは本当につらい。それこそ地獄だと思う。それだったら、許すこと、あきらめることが大事だと思って。どうすることもできないことってあるじゃないですか。あきらめて心を解放しないと。

もちろん、現実から逃げているという部分もある。でも、今はまだ「その時」に引き戻されるのがつらいですからね。心のバランスを取らなければならないから。

『    「唐桑御殿つなかん」と、立派な「まぐろ御殿」。震災後、屋根だけ残った自宅で、菅野さんは、復興支援の若いボランティアたちを無償で寝泊まりさせていました。「復興しても、みんなが帰って来れるように」と、建物を修繕して民宿にしました。ボランティアたちは、地名につく「鮪(まぐろ)」の英語「ツナ」に、菅野邸の「カン」を合わせて「ツナカン」と呼んでいました。それが民宿の名の由来です=東野真和撮影    』

乗り越えられないこと、「優しさに変えていきなさい」
「運命を愛せ」って、昔は受け入れられない言葉でした。結婚して22歳でここに来て、夜明け前から毎日毎日、つらくて慣れない海の仕事をして。もっといい服を着ていい所に行きたい。「こんなの私の運命じゃない」って義父に反抗したりして。

でも今から思うと、それはたいした苦しみではなかった。だからその言葉を受け入れられなかった。家や家族を失ってもっともっとひどい現実にぶちあたって、初めてこの言葉が胸に響いてきました。

「愛せ」と言うと何か変な気がしますが、怒りや憎しみでなく、優しさに変えていきなさい、という意味。どうしたって乗り越えられないことはある。つらい、憎い、で人生を終わるのはそれこそ地獄だ。

そして、すべてのことには何か意味はある。そう思わないと。もちろん悪い意味でなくいい意味でね。

震災後、自宅を民宿にして営業を始めた後に家族を失ったのですが、お客さんが心配しながら待っていてくれたのも生きる糧になりました。お返しをしなきゃと。

「私は4人分の力を持っている」
残った娘2人も、私が元気でいるということで安心する。私が守って軌道修正しなければと、と少しずつ思うようになってきた。自分が死ぬと、もっと悲しむし、そんなことしたら、亡くなった夫たちも悲しむだろうと。

私は「(亡くなった)3人が応援してくれているから、私は4人分の力を持っている」と言っています。私から「元気をもらいたい」と、今はたくさんの人が旅館に来てくれます。悲しいことがあっても、きっとそれは何かのためになるんだと思っています。

人間、そのうち自然に死ぬ。迎えに来てくれるんだから、自分から行くことはない。

自殺願望を持つ人の気持ちはわかります。家族を失って死にたいと思った時、自分と同じ気持ちの人がいるんだということが、実は心のよりどころになったこともありました。

生きるか死ぬかの境。そこで大事なのは、自分を心配してくれている人がいることに気づくかどうか。自分一人ではないということを、理解できるかどうかがすごく大きいと思う。

そういう私もふっと落ち込む時があるけど、死ねばそれで終わっちゃう。それでいいやと思うかもしれないが、それでは自分しか見えていない。

まあ、迷ったら私の旅館に来てください。大丈夫だ、って背中をたたいてあげるから。






連載|気仙沼便り|10月「民宿つなかんとの出合い」
連載|気仙沼便り
10月「民宿つなかんとの出合い」
2014年4月、トラベルジャーナリストの寺田直子さんは、宮城県・気仙沼市へ向かった。目的は20年ぶりに造られたという、あたらしい漁船の「乗船体験ツアー」に参加すること。震災で大きな被害を受けたこの地も、3年の月日を経て、少しずつ確実に未来へ向かって歩きはじめている。そんな気仙沼の、ひいては東北の“希望の光”といえるのが、この船なのだと寺田さんは言う。漁船に導かれるまま、寺田さんが見つめた気仙沼のいま、そしてこれからとは? 唐桑(からくわ)半島の旅は、民宿つなかんとの出合いからはじまった。

見送りは大きな大漁旗をふって
安波山の展望スポットを後にした私たちは唐桑(からくわ)半島に向かった。

唐桑半島は古くから腕のいい漁師たちを輩出してきた場所だ。半島の海を臨む地域には「唐桑御殿」と呼ばれる漁業で財をなした彼らの家がある。

自分の腕で稼いだ証しとして立派な家を建てる豪気と、沖に出て漁をする間、家族を安全な場所に住まわせたいという家長の思いがこめられている。そして家を守る側は一目でも早く海から還ってくる家長を出迎えるため、どの御殿もはるか沖合いまで見渡せるようにどっしりとそびえる。

そんな唐桑半島も津波の被害で多くの家屋が崩壊した。もちろんその中には唐桑御殿も含まれる。私たちが訪れたのは鮪立(しびたち)地区。地名からして海と共に暮らす場所であることがうかがいしれる。

ここにあるのが民宿「つなかん」。民宿といっても震災後にはじめたもの。本来は漁師だ。それも三代約100年にわたり牡蠣、帆立、わかめの養殖を行ってきた盛屋水産が経営。カッコいいご主人にほれ込み嫁に来たという一代さんが看板娘。今回のツアーのリピーターのなかにも、再び一代さんに会いにきた人がいるほど。快活な彼女のファンは多い。

盛屋水産の自宅だった「唐桑御殿」も津波が3階まで押し寄せ、甚大な被害にあった。一時は取り壊しを考えたという。しかし、漁師の威信をかけて建てられた家はしぶとかった。すべては津波と共に流され壊されたが親柱はみごとに残った。そこで、一代さんたちは新しく家を再建。民宿つなかんをはじめながらカキ養殖再建へと舵をきったのだった。

この日は昼食としてそのつなかんの前で屋外バーベキューをおこなった。

用意されていたのはこの時期ならではのものばかり。ワカメのしゃぶしゃぶ。そして気仙沼名物、気仙沼ホルモン、カレー、さらに大ぶりの焼ガキが豪勢に並ぶ。さっと湯にくぐらせ鮮やかなグリーンのワカメをポン酢につけて口にほおばる。磯の香りがふわりと広がる。春の気仙沼ならではの贅沢だ。


焼ガキは甘くミルキーでこれもまた絶品。思わず参加者から生ビールや宮城県産の銘酒を所望する声がかかる。

途中、ゲストとして若手の漁師たちがやってきた。無口でシャイ。しかし、いざとなれば勝負をする本物の海の男たちだ。独身者も多く、これからの課題は「お嫁さん探し」。「自分たちは朝2時、3時に起きますが、ヨメさんは寝ててもらって大丈夫っす。うちのかあちゃんもそうですから」

漁師の嫁は大変だというイメージを払拭して、心優しいお嫁さんがくることが周囲の人間たちの願い。「つばき会」の和枝さんもそれを心配するひとりだ。「いやぁ、本気でお見合いツアーしないとだねぇ」。今回参加している若い女性たちと一緒に恥ずかしそうに記念写真に並ぶ彼らを見て、そうつぶやく。

お腹もいっぱいになり、次なる訪問地へと再びバスに乗り込む一行。バスが発車するのを大きな大漁旗をふって見送るのは気仙沼の流儀。一代さんと若い漁師のみなさんが手をふって見送ってくれた。

実は、気仙沼の復興をめぐって現在、防潮堤の建設が計画されている。岸にそって高さ8メートル。コンクリートの壁を作ることで今後、起こる津波に対処するものだ。

しかし、漁師たちは海の状況を自分の眼で確かめ、潮目を見ながら漁をしてきた。家族や地元の人たちを津波から守ることは大前提だが、防潮堤によって海が見えなくなることには大きな不安がある。防潮堤を作るべきか、不要か。苦渋の選択を気仙沼はしなくてはならないのだ。

バスがゆっくりと坂道をのぼり、眼下に再び鮪立の入り江とつなかんが小さく見えたとき。

「あっ、まだ手をふってる!」

参加者の誰かが叫んだ。バスの窓からのぞくと、小さな点のようになって、それでもこちらを見上げて若い衆が大漁旗を大きく力強く振っているのがわかる。一代さんも小さな体を思いっきり跳ねあげて大きく大きく腕をふっている。

それを見ていたら声にならない熱い思いが胸に込みあげてきた。

がれきの処理が終わり更地になった土地はぽっかりと空白のように見えるけれど、ここには前を向いて進んでいこうとする心温かな人たちが今も暮らしている。聞こえないことはわかっていたけれど、車内のわたしたちも「さようなら~」「元気でねー」「ありがとう~」と声にして精いっぱい手をふった。

遠すぎるからか、それとも涙のせいだろうか。表情までは見えないけれど、一代さんたちが大きな笑顔でそれに応えてくれていることだけは、みんなわかっていた。

寺田直子|TERADA Naoko
トラベルジャーナリスト。年間150日は海外ホテル暮らし。オーストラリア、アジアリゾート、ヨーロッパなど訪れた国は60カ国ほど。主に雑誌、週刊誌、新聞などに寄稿している。著書に『ホテルブランド物語』(角川書店)、『ロンドン美食ガイド』(日経BP社 共著)、『イギリス庭園紀行』(日経BP企画社、共著)、プロデュースに『わがまま歩きバリ』(実業之日本社)などがある。