3.11から11年。「息をするのもつらかった」“名物女将”の喪失と再生
追っかけ漏れ太郎
東日本大震災で被災した宮城県は気仙沼市唐桑町。そこには全国にファンを持つ“名物女将”菅野一代がいる。もともと夫と二人三脚で牡蠣の養殖業を営んでいた彼女は、震災以降、数々の困難に見舞われながらも民宿を開業。はじけるような笑顔で「おかえり!」と客を迎えている。彼女の強さは一体どこから湧いてくるのか。現地を訪ねた。
「息をするのもつらかった」“海の女”の喪失と再生
’11年3月11日、14時46分。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震が起きたそのとき、牡蠣の養殖業を営む菅野一代さんは宮城県気仙沼市唐桑町の鮪立漁港にいた。
地震からおよそ10分後に到達した津波の第一波は、車に飛び乗って難を逃れた。その後、牡蠣小屋が心配になり、元いた漁港に戻った彼女は、誰かが叫ぶ声を聞いた。
「大きいのがくっがら早ぐ逃げろー! 何してんだー!」
海の向こうを見ると山のように大きな津波が押し寄せてくる。一代さんは咄嗟に近くの山を駆け登った。冷たい雪が降る中、高台から見たのは、人々が波にのまれて流される凄絶な光景だった。彼女は当時をこう振り返る。
「現実に何が起きているのか理解できませんでした。なんて言うか、これって地球だよね?みたいな」
笑顔の裏に隠された傷痕
気仙沼市における最大波は15時14分。広田湾沖で6mを観測した。
一代さんはその後、山を伝って避難所に辿り着くまでに3時間を要した。夫や娘、義父母ら家族の安否を確認できたのは救いだった。電気も水道も止まった避難所で、地域住民と数少ない布団や座布団を取り合いながら、彼女は思った。
「人ってみんな同じだなって。ホテルを持っているようなお金持ちとか社長さんでも、なす術がないんです。どんな人もみんな一緒になってラップのご飯を分け合って食べた。人って脆くて弱いんです」
繰り返す余震に震えながら避難所で2か月を過ごした一代さん。そこから見下ろした“火の海”は今でも瞼の裏に焼きついている。
「気仙沼市の鹿折地区ってところの火事がすごくて。船が燃えながら、潮の流れで全部ここに流れてくる。船から漏れ出た石油に引火して海が燃え、そこから黒い煙が空まで続いていました。地震も津波も怖かったけど、真っ赤な火の海はもっと怖かった」
気仙沼市では9500世帯が被災。1432人が亡くなった。
未曽有の大震災から11年がたつ。一代さんは今、女将として民宿「唐桑御殿つなかん」を切り盛りしながら、たくさんの客に笑みを振りまいている。でも、笑顔の裏には多くの傷痕が残ったままだ。
津波でほぼ全壊の家を民宿にして再起
東日本大震災の大津波で、牡蠣の養殖に使っていたイカダや船、小屋はすべて押し流された。’10年のチリ地震で被害を受けたイカダの修復をようやく終え、「明日から頑張ろう」とみんなで乾杯した翌日が3.11だった。入母屋造りの立派な自宅は3階まで海水に浸かり、屋根と柱しか残らなかった。
それでも一代さんが再起に立ち上がったのは、震災ボランティアとして気仙沼を訪れていた学生たちとの出会いがあったからだ。
「6月頃だったかな。学生ボランティアの一人から『ここで寝泊まりさせてもらえませんか』って声をかけられて、好きに使ってもらうことにしたんです。家は泥まみれだし、取り壊すしかないと諦めていたのですが、そのコたちが入ってくれて家が生き返ったんです」
息を吹き返したのは、家だけでなく、一代さん自身もそうだった。
「ここで生活する学生たちを見ていたら、彼らがまた戻ってくる拠点をつくりたいなって思ったんです。あと、若いコの前でいつまでも落ち込んでいられない、カッコ悪い姿を見せたくないって、そういう気持ちも芽生えてきた。それからはもう、女将まっしぐら(笑)」
夫からは「牡蠣の養殖業もちゃんとやる」ことを条件に民宿開業の了承を得た。被災地ファンドで1000万円の資金を集め、津波で流された襖や欄間は学生たちと泥の中から探して拾ってきた。そして元の家と遜色のない民宿つなかんは震災翌年の’12年に完成、10月にオープンした。こうして一代さんは晴れて女将になった。
17年の海難事故で家族を失う
養殖業と民宿運営。一代さんの二足の草鞋を履いた生活は忙しくも充実していた。なのに“神様”は悪戯に彼女を傷つける。再び悲劇が襲ったのは’17年。海難事故で夫、長女、三女の夫の命が失われた。
「なんで私だけこんな目に、って神様を憎みました。その頃は明るいものを見るのがとにかく嫌で、何かが目に入るたびに夫のことを思い出しちゃうから、暗い部屋でじっとしてました。春のにおいとか秋の夕焼けとか、それすらも悲しくなる。だから引きずられないように、感情のシャッターを閉める癖がついた。いいのか悪いのか」
それでも一代さんは事故から3か月後に民宿を再開する。それは一代さん流の“荒療治”だった。
「みんなから『何もしなくていい』って言われてたんだけど、息をすることすら辛かった。こんなに苦しいんだったら、民宿を再開してお客さんと向き合ってみようと思ったんです。お客さんには私の事情なんて知らない人もいる。だったら苦しいのは我慢して、来てくれたことに感謝しようって。そういうふうに向き合っているうちに、ちょっとずつ笑えるようになった。最初は嘘でも笑顔でいると、段々と自然に笑顔になれるんです」
「海を恨んでいない」理由
町をのみ込み、家族を奪った海に対しても、一代さんは「海がかわいそう」と恨んでいない。
「震災のとき、みんなが『この海が!』って憎んでいて海がかわいそうだなと思ったんです。海は人をのみ込みたくてのみ込んだんじゃない。今まで恩恵にあずかってきたのに悪者扱いしてかわいそうでした。でもさすがに、うちの人たちものみ込んだのは……。だから今でも海をまともに見られないんですけど、私は海で生きてきたし、みんなが尊い仕事をしてきたここを離れたくないんです」
つなかんの目と鼻の先ではまだ防潮堤が建設途中だ。「高すぎて海が見えない」「刑務所みたいだ」など不満の声も少なくない中、一代さんは「防潮堤があってもなくても、いいこともあるし悪いこともある」と中立の立場をとる。
「義父によく言われました。『与えられた運命を愛せよ』って。与えられた中で生きていく術を見つける。これでよかったって思える方向に持っていく。それが大事なんだと思っています。人の一生なんて本当にあっという間だし、どう生きるかは自分次第だから」
たくさんの人々が訪れる人気の宿に
今やつなかんはたくさんの人々が訪れる人気の宿になった。かつての学生ボランティアや、一代さんの手作り料理を求めてリピートする客も多い。
また、民宿脇にある「サウナトースター」なる車両型サウナ目当ての客も増えている。
そのサウナは、以前ここに立ち寄った、愛知県名古屋市を中心に名サウナを展開するウェルビーの代表の好意で置かれたものだ。もともと震災後の東北各地を巡りボランティアたちの冷えた体を温めたサウナトースターが、こうして鮪立漁港に停められているのはある意味、運命だったのかもしれない。
それでも、人生は続いていく
一代さんは目に涙を溜めて、窓の外の海を見ながら、声をしぼる。
「死ぬよりも生きてるほうが辛いし怖いんです。このまま何事もないようにって思いながらみんな生きてるでしょう。平穏な日常が続いてほしいって。でも、時間が薬になるの。私の中には家族が生きていて、『こうしてもいい?』って聞くと『いいよ』って言ってくれる。ここを訪れてくれる人たちもいる。守るべきものがある。なんとかなる。私はなんとかなったよ」
取材を終えて車を走らせると、気仙沼市内には震災から11年たつ今もあらゆる爪痕が見て取れる。防潮堤の無機質な存在感はあまりにも大きい。
でも同時に、新たにできた商業施設の数々とその賑わいに確かな芽吹きを感じる。昔は取り戻せないけれど人生は続いていく。一代さんは、生きながら、そのことを伝えているのかもしれない。そう、なんとかなる。
「人生に迷ったら旅館に」底抜けに明るい女将が失い、見つけたもの
震災で生き残った夫や娘ら3人を海難事故で失った。それでも明るい宮城県気仙沼市の旅館の女将が送る、生きづらさを抱える人へのメッセージ。
宮城県気仙沼市にある唐桑町鮪立(しびたち)。この小さな港町に、民宿「唐桑御殿つなかん」があります。震災後、屋根だけ残った自宅で、菅野一代(かんの・いちよ)さん(56)は、復興支援の若いボランティアたちを無償で寝泊まりさせていました。笑顔が魅力の菅野さんですが、「人と会うのは絶対無理。光さえ見るのも嫌だった」という時期がありました。震災で生き残った夫や娘ら3人を、海難事故で失ったのです。絶望の中、菅野さんは、民宿のお客さんに支えられ元気を取り戻しました。今、生きづらさを抱える若者に菅野さんは、こう言います。「自分を心配してくれている人がいることに気づいてほしい。まあ、迷ったら私の旅館に来てください。大丈夫だ、って背中をたたいてあげるから」。
「どうやったら死なずにいられるか」考えた
「自分をなくしたい」と言う思いを持った人は、少なからずいると思います。
私は東日本大震災の津波で家が全壊しました。2017年3月に海難事故で夫、娘、義理の息子の3人を亡くした時は、「自分も一緒に行きたい」と思ったこともあります。でもその一方で「どうやったら死なずにいられるか」とも考えました。
人と会うのは絶対無理。光さえ見るのも嫌だった。じっとしていないと、自分が自分でなくなるくらいだった。できるのは、何かすがれる言葉をインターネットで探すことでした。家に閉じこもって、3カ月間ほどずっと探していました。
こういう時は、宗教的な言葉に引き寄せられますね。なるほどと思った言葉もあります。例えば、「人の一生はお釈迦様の一瞬きと同じ時間」という言葉。それを見て、そんな一瞬だったらちょっとがんばれるかなと、少し落ち着きました。
恨んで生きるのは本当につらい
「亡くなった人の分まで耐えてやれ」という言葉もありました。3人のために何もしてやれないけど、耐えることだったらできるかもしれない。と思って耐えた。
でも、そんな言葉を最後に心に落とし込むのは自分です。心が安らぐ言葉を探すのは自分。「自分教」なんです。答えは自分の中にあるんだよね。
震災後に天寿を全うした夫の父の口癖も、立ち直るきっかけになりました。「自分の運命を愛せよ」という言葉です。
海が憎い、風が憎い、あのときああだったら、だれのせい、あれのせい、と憎んだり、恨んだりして生きるのは本当につらい。それこそ地獄だと思う。それだったら、許すこと、あきらめることが大事だと思って。どうすることもできないことってあるじゃないですか。あきらめて心を解放しないと。
もちろん、現実から逃げているという部分もある。でも、今はまだ「その時」に引き戻されるのがつらいですからね。心のバランスを取らなければならないから。
『 「唐桑御殿つなかん」と、立派な「まぐろ御殿」。震災後、屋根だけ残った自宅で、菅野さんは、復興支援の若いボランティアたちを無償で寝泊まりさせていました。「復興しても、みんなが帰って来れるように」と、建物を修繕して民宿にしました。ボランティアたちは、地名につく「鮪(まぐろ)」の英語「ツナ」に、菅野邸の「カン」を合わせて「ツナカン」と呼んでいました。それが民宿の名の由来です=東野真和撮影 』
乗り越えられないこと、「優しさに変えていきなさい」
「運命を愛せ」って、昔は受け入れられない言葉でした。結婚して22歳でここに来て、夜明け前から毎日毎日、つらくて慣れない海の仕事をして。もっといい服を着ていい所に行きたい。「こんなの私の運命じゃない」って義父に反抗したりして。
でも今から思うと、それはたいした苦しみではなかった。だからその言葉を受け入れられなかった。家や家族を失ってもっともっとひどい現実にぶちあたって、初めてこの言葉が胸に響いてきました。
「愛せ」と言うと何か変な気がしますが、怒りや憎しみでなく、優しさに変えていきなさい、という意味。どうしたって乗り越えられないことはある。つらい、憎い、で人生を終わるのはそれこそ地獄だ。
そして、すべてのことには何か意味はある。そう思わないと。もちろん悪い意味でなくいい意味でね。
震災後、自宅を民宿にして営業を始めた後に家族を失ったのですが、お客さんが心配しながら待っていてくれたのも生きる糧になりました。お返しをしなきゃと。
「私は4人分の力を持っている」
残った娘2人も、私が元気でいるということで安心する。私が守って軌道修正しなければと、と少しずつ思うようになってきた。自分が死ぬと、もっと悲しむし、そんなことしたら、亡くなった夫たちも悲しむだろうと。
私は「(亡くなった)3人が応援してくれているから、私は4人分の力を持っている」と言っています。私から「元気をもらいたい」と、今はたくさんの人が旅館に来てくれます。悲しいことがあっても、きっとそれは何かのためになるんだと思っています。
人間、そのうち自然に死ぬ。迎えに来てくれるんだから、自分から行くことはない。
自殺願望を持つ人の気持ちはわかります。家族を失って死にたいと思った時、自分と同じ気持ちの人がいるんだということが、実は心のよりどころになったこともありました。
生きるか死ぬかの境。そこで大事なのは、自分を心配してくれている人がいることに気づくかどうか。自分一人ではないということを、理解できるかどうかがすごく大きいと思う。
そういう私もふっと落ち込む時があるけど、死ねばそれで終わっちゃう。それでいいやと思うかもしれないが、それでは自分しか見えていない。
まあ、迷ったら私の旅館に来てください。大丈夫だ、って背中をたたいてあげるから。
連載|気仙沼便り|10月「民宿つなかんとの出合い」
連載|気仙沼便り
10月「民宿つなかんとの出合い」
2014年4月、トラベルジャーナリストの寺田直子さんは、宮城県・気仙沼市へ向かった。目的は20年ぶりに造られたという、あたらしい漁船の「乗船体験ツアー」に参加すること。震災で大きな被害を受けたこの地も、3年の月日を経て、少しずつ確実に未来へ向かって歩きはじめている。そんな気仙沼の、ひいては東北の“希望の光”といえるのが、この船なのだと寺田さんは言う。漁船に導かれるまま、寺田さんが見つめた気仙沼のいま、そしてこれからとは? 唐桑(からくわ)半島の旅は、民宿つなかんとの出合いからはじまった。
見送りは大きな大漁旗をふって
安波山の展望スポットを後にした私たちは唐桑(からくわ)半島に向かった。
唐桑半島は古くから腕のいい漁師たちを輩出してきた場所だ。半島の海を臨む地域には「唐桑御殿」と呼ばれる漁業で財をなした彼らの家がある。
自分の腕で稼いだ証しとして立派な家を建てる豪気と、沖に出て漁をする間、家族を安全な場所に住まわせたいという家長の思いがこめられている。そして家を守る側は一目でも早く海から還ってくる家長を出迎えるため、どの御殿もはるか沖合いまで見渡せるようにどっしりとそびえる。
そんな唐桑半島も津波の被害で多くの家屋が崩壊した。もちろんその中には唐桑御殿も含まれる。私たちが訪れたのは鮪立(しびたち)地区。地名からして海と共に暮らす場所であることがうかがいしれる。
ここにあるのが民宿「つなかん」。民宿といっても震災後にはじめたもの。本来は漁師だ。それも三代約100年にわたり牡蠣、帆立、わかめの養殖を行ってきた盛屋水産が経営。カッコいいご主人にほれ込み嫁に来たという一代さんが看板娘。今回のツアーのリピーターのなかにも、再び一代さんに会いにきた人がいるほど。快活な彼女のファンは多い。
盛屋水産の自宅だった「唐桑御殿」も津波が3階まで押し寄せ、甚大な被害にあった。一時は取り壊しを考えたという。しかし、漁師の威信をかけて建てられた家はしぶとかった。すべては津波と共に流され壊されたが親柱はみごとに残った。そこで、一代さんたちは新しく家を再建。民宿つなかんをはじめながらカキ養殖再建へと舵をきったのだった。
この日は昼食としてそのつなかんの前で屋外バーベキューをおこなった。
用意されていたのはこの時期ならではのものばかり。ワカメのしゃぶしゃぶ。そして気仙沼名物、気仙沼ホルモン、カレー、さらに大ぶりの焼ガキが豪勢に並ぶ。さっと湯にくぐらせ鮮やかなグリーンのワカメをポン酢につけて口にほおばる。磯の香りがふわりと広がる。春の気仙沼ならではの贅沢だ。
焼ガキは甘くミルキーでこれもまた絶品。思わず参加者から生ビールや宮城県産の銘酒を所望する声がかかる。
途中、ゲストとして若手の漁師たちがやってきた。無口でシャイ。しかし、いざとなれば勝負をする本物の海の男たちだ。独身者も多く、これからの課題は「お嫁さん探し」。「自分たちは朝2時、3時に起きますが、ヨメさんは寝ててもらって大丈夫っす。うちのかあちゃんもそうですから」
漁師の嫁は大変だというイメージを払拭して、心優しいお嫁さんがくることが周囲の人間たちの願い。「つばき会」の和枝さんもそれを心配するひとりだ。「いやぁ、本気でお見合いツアーしないとだねぇ」。今回参加している若い女性たちと一緒に恥ずかしそうに記念写真に並ぶ彼らを見て、そうつぶやく。
お腹もいっぱいになり、次なる訪問地へと再びバスに乗り込む一行。バスが発車するのを大きな大漁旗をふって見送るのは気仙沼の流儀。一代さんと若い漁師のみなさんが手をふって見送ってくれた。
実は、気仙沼の復興をめぐって現在、防潮堤の建設が計画されている。岸にそって高さ8メートル。コンクリートの壁を作ることで今後、起こる津波に対処するものだ。
しかし、漁師たちは海の状況を自分の眼で確かめ、潮目を見ながら漁をしてきた。家族や地元の人たちを津波から守ることは大前提だが、防潮堤によって海が見えなくなることには大きな不安がある。防潮堤を作るべきか、不要か。苦渋の選択を気仙沼はしなくてはならないのだ。
バスがゆっくりと坂道をのぼり、眼下に再び鮪立の入り江とつなかんが小さく見えたとき。
「あっ、まだ手をふってる!」
参加者の誰かが叫んだ。バスの窓からのぞくと、小さな点のようになって、それでもこちらを見上げて若い衆が大漁旗を大きく力強く振っているのがわかる。一代さんも小さな体を思いっきり跳ねあげて大きく大きく腕をふっている。
それを見ていたら声にならない熱い思いが胸に込みあげてきた。
がれきの処理が終わり更地になった土地はぽっかりと空白のように見えるけれど、ここには前を向いて進んでいこうとする心温かな人たちが今も暮らしている。聞こえないことはわかっていたけれど、車内のわたしたちも「さようなら~」「元気でねー」「ありがとう~」と声にして精いっぱい手をふった。
遠すぎるからか、それとも涙のせいだろうか。表情までは見えないけれど、一代さんたちが大きな笑顔でそれに応えてくれていることだけは、みんなわかっていた。
寺田直子|TERADA Naoko
トラベルジャーナリスト。年間150日は海外ホテル暮らし。オーストラリア、アジアリゾート、ヨーロッパなど訪れた国は60カ国ほど。主に雑誌、週刊誌、新聞などに寄稿している。著書に『ホテルブランド物語』(角川書店)、『ロンドン美食ガイド』(日経BP社 共著)、『イギリス庭園紀行』(日経BP企画社、共著)、プロデュースに『わがまま歩きバリ』(実業之日本社)などがある。